吉田 兼熈(よしだ かねひろ)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての神祇官・吉田神社社務・公卿。卜部兼豊の子。官位は正三位・神祇大副、侍従。卜部氏17代・吉田家家祖。吉田卜部氏中興の祖とされる。
経歴
貞和4年(1348年)、卜部兼豊の子として誕生。
永和元年(1375年)、それまでの宿禰を改め朝臣の姓を賜った[1]。
永和4年(1378年)、室町幕府3代将軍・足利義満が室町第に移ったことから、それまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田を家名とした。至徳3年(1386年)、それまでの父祖の官位の例(神祇伯の相当位階は従四位下)を超えて従三位に叙され、公卿に列せられた。明徳3年(1392年)には南北朝合一に向けての交渉(明徳の和約)にあたった。
応永9年(1402年)、薨去。
系譜
- 父:卜部兼豊
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:吉田兼敦
- 女子:定心院上臈
- 男子:吉田兼村
- 男子:吉田兼行
- 男子:吉田兼富
- 男子:吉田兼任
脚注
関連項目