加藤照麿

加藤 照麿(かとう てるまろ、文久3年9月8日1863年10月20日) - 大正14年(1925年9月29日[1])は、明治・大正時代の日本華族政治家小児科医東京府華族[2]貴族院議員従三位勲二等[3]男爵[2]医学博士[2]加藤弘之の長男。

人物

1888年プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と[4]。前列左より河本重次郎山根正次田口和美片山國嘉石黑忠悳隈川宗雄尾澤主一[5]。中列左から森林太郎武島務中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙瀬川昌耆北里柴三郎江口襄[5]。後列左から濱田玄達、加藤、北川乙治郎[5]

江戸に生まれる。東京外国語学校ドイツ語を学び、東京大学医学部に学んだ。中退して1884年(明治17年)にドイツへ留学、ベルリン大学で「ドクトル・メデチーネ」の学位を取得して卒業[6]ミュンヘン大学で小児科、種痘科を研修。1888年(明治21年)に帰国して、宮内省侍医局侍医となった。1906年に医学博士号取得。東宮主任侍医を務めたことから、五男の鋭五が迪宮(昭和天皇)幼少期のお相手(遊び友達)に選ばれた。

1925年(大正14年)5月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選したが[7]、同年9月に63歳で没した[1][7]。墓所は雑司ヶ谷霊園

栄典

位階
勲章等

家族・親族

加藤家

兵庫県豊岡市出石町、東京麹町区下二番町[2]

親戚

脚注

  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』67頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『人事興信録. 7版』(大正14年)か一三
  3. ^ 『官報』第3938号「彙報-官庁事項-有爵者薨去」1925年10月8日。
  4. ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
  5. ^ a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、242頁。(ページ番号記載なし)
  6. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、331頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  7. ^ a b 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
  8. ^ 『官報』第5123号「叙任及辞令」1900年7月31日。
  9. ^ 『官報』第5159号「叙任及辞令」1900年9月11日。
  10. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  11. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  12. ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。

参考文献

  • 日本人名大辞典(講談社
  • 海を越えた日本人名辞典(富田仁編、日外アソシエーツ
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク


日本の爵位
先代
加藤弘之
男爵
加藤(弘之)家第2代
1916年 - 1925年
次代
加藤成之

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