中村朝定(なかむら ともさだ)は、鎌倉時代初期の御家人、中村城主。経若[† 3](幼名)、義宗、中村蔵人、中村左衛門尉。朝定より15代の孫に宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた中村玄角がいる。
藤原氏(中村氏、伊達氏)統治の下野中村荘園と朝定
文治年中に朝定が中村常陸入道念西(伊達朝宗)の養子となってまもなく奥州合戦が起こり、文治5年(1189年)8月、[† 4]念西の4人の息子が源頼朝に従い奥州合戦に従軍し石那坂の戦いで戦功を得、念西は伊達郡と信夫郡を賜わり伊達の地頭になった。同年冬、朝定は念西が地頭となった伊達に移るにあたり常陸冠者為宗に預けられ、常陸四郎と名乗り石那坂の戦い第一の活躍を見せた為宗や荘厳寺の行勇阿闍梨らの養育を受けた。この荘厳寺坊行勇阿闍梨は念西が荘厳寺を再興した際に鶴岡八幡宮より招聘していた[2]。建久年頃は下野の中村は念西の三男の資綱[† 5]、常陸の伊佐は常陸冠者為宗、伊達は為重(宗村)と息子の義広がそれぞれ統治していた[3]。
建仁年頃に成人となると念西の遺言に従い中村城に入り本姓の中村を相続した。それまで中村の荘を預かっていた資綱は実質鎌倉にいて幕府の職に就いていた。[† 6]。朝定(義宗)が成人し中村城主となると資綱が長らく鎌倉にあったため領地が疲弊していたので、朝定(義宗)は領民に良く、そして養父念西(伊達朝宗)、宗村よりの中村領における治水に励み、下野衣川(現在の鬼怒川)よりの水路を勝瓜口(現在の栃木県真岡市勝瓜近辺)より領内への用水路開拓を自らの治世に尽くした。中村領民は朝定が亡くなった後に中村城近くに朝定を慕い朝定を土人(この地で育ち生きた人という愛慕の意味を込めた)として祀った『中村大明神』を建立した[4]。
承元3年(1209年)、源実朝が常陸冠者為宗に長世保(現在の宮城県松山町)の拝領地の開墾を命じた際に[5]朝定(義宗)を伊佐為家の鎌倉舘預かりとし実質は朝定(義宗)、縫殿助父子を鎌倉の監視下に置いた。鎌倉幕府は中村領を伊勢神宮領小栗郷「小栗御厨」を管理していた小栗氏に地頭を任じ中村領を管理させた。この頃、朝定は義宗と名乗っていたが幕府は義経に通ずる義の通字を良しとせず養父朝宗より1字賜り朝定と改めた。朝定、その子中村縫殿助、孫の中村太郎は、八幡宮に奉納するほどの弓の遣い手であった。
承元3年以後、朝定は伊達、伊佐氏のもと鎌倉にあって旧領の下野国中村への帰還は叶わなかった。中村氏が旧領を取り戻すのは鎌倉幕府が滅亡した朝定より5代後の中村経長の代まで待つことになる。
源義経の遺児伝承
源千歳丸
中村朝定の源義経遺児伝承概要
青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起には「千歳丸のちの経若丸は義経の子であり、千歳丸を常陸坊海尊に託し、常陸介念西に預け後に養子にした」[6]との伝承や、真岡市教育委員会(編)『真岡市史案内』収録の小林利男「中村城のこと」の文献によると、栃木県真岡市の遍照寺古寺誌や中村八幡宮の記録の中村朝定についての出自についての伝承[4]には朝定は幼名を経若と言い、その出自については源義経の遺児経若であるという。古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り、後に改めて中村左衛門尉朝定と名乗った[7]。この遍照寺や中村八幡宮を中心とした地域の寺院等に同様の伝承文献が存在する[8]。
文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む。
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伊達氏史料による朝定
伊達氏側による朝定についての記録・史料については「亀岡八幡宮代参八幡氏由緒」(仙台博物館所蔵)においてその名を確認できる。伊達氏側の史料によると朝定については念西の嫡子としており、その名は「八幡太郎義宗」と記載されている。藤原姓を本姓とする伊達氏において源氏嫡流を意味する八幡太郎の名を冠し、本姓中村を継がせた嫡子扱いと伊達氏に於いては特別扱いをしていたのが窺いとれる[9]。
山陰中納言政朝公之御孫中村常陸入道宗村公之御嫡子初而八幡之家ヲ被為継候而八幡宮御代参被仰付、号八幡太郎義宗公ト、代々八幡之家相続仕候
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千歳丸伝承考察
『吾妻鏡』の文治3年2月10日条には、義顕(義経)が奥州入りした際に「正室と男子、女子の子供を連れていた」とされているが、衣川の戦いで死亡したのは4歳になる女児のみ記載されていて男子の死については記載されていない。『続群書類従』の「清和源氏系図」には源義経の男子として千歳丸が挙げられている(陸奥国の衣川館において3歳で誅殺されたとの記載もある)。秀衡が、常陸坊海尊に義経の縁者にあたるとされている念西に託すよう命じたとのことで義経一行が奥州入りした文治3年2月から秀衡が亡くなったとされる10月の8ヶ月の間に経若が連れ出されたされていることや衣川の戦いで亡くなったのが女子のみの記録などから、この千歳丸が経若であるとの伝承を裏付けているとの説もある[10]。
源義経の遺児伝承に基づく相関図(略系図)
墓所
中里魚彦(東京大学史料編纂所講師・栃木県文化財保護審議会委員)の研究によると、栃木県真岡市の荘厳寺に現存する源頼朝供養塔とともに数基の墓石群が存在する。伝承によると中村朝定を初めとする中村城主の墓所であり、天文13年に下館城主・水谷蟠龍斎正村によって中村城が攻め落とされ領地が奪われた際に、敵方となった中村城主一族の墓所と知られ打毀せぬよう源頼朝供養塔として後の世に伝わったとされている。中里はこの墓石群と中村城主一族との関係の手掛かりを見つけるために墓石の拓をとり墓碑の文字を調査したが風化、破損などにより中村一族の墓石群であるとの確証をとるには至らなかった[11]。
中村大明神(中村小太郎明神)
遍照寺の境内に、「中村大明神」として中村朝定を祀る社が存在する。栃木県市町村誌によると中村大明神の由緒については「中村左衛尉朝定死后、中村大明神と崇り祀り、歳々十一月十五日土人之ヲ祭ルナリ」とあり[4]、中村常陸介宗村二男を祀る社であるとされている。中村大明神は中村城落城の後、最後の城主となった中村小太郎時長を祀る小太郎明神としてその後伝わるようになった。場所は中村城跡に建立されていたが、大正2年5月に現在の遍照寺の境内に移築され、中村城初代の中村朝宗を祭神とし歴代の中村氏の人々を祀る社となった[12]。
なお、現在の中村大明神には、NHK大河ドラマの独眼竜政宗の製作協力として名を連ねる仙台藩志会が作成した由緒書きが展示されている。同書では、伊達氏の起源伝承及び義経遺児伝承が採用され、中村朝宗が奥州伊達に移る際に中村の庄を義宗に譲ったとし、義宗は実は源義経の子で幼名を経若丸と言い、後に朝定と改めたと記載されている。
出典・注釈
参考史料
- 中村沿革誌(松本宗内、下野史料、1895年)
- 中村郷土誌(田代黒瀧、下野史料、1912年)
- 芳賀郡南部郷土誌(佐藤行哉、1936年)
- 亀岡八幡宮代参八幡氏由緒(仙台市博物館所蔵)
- 野州中村神社縁起(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會)
参考文献
出典
- ^ a b c 野州中村神社縁起 P18
- ^ 『荘厳寺の世界』宇南山照信 「行勇の時代」P52 みち書房
- ^ 『中村城跡と伊達氏』中里魚彦 伊達氏P63-65
- ^ a b c d 小林利男「中村城のこと」『真岡市史案内』第4号、真岡市教育委員会、1985年。
- ^ 『伊達氏の源流の地』土生慶子 伊佐の庄と伊佐城P114
- ^ 『源義経周辺系図解説』P42(批評社、2016年)
- ^ 『伊達氏と中村八幡宮』(中村八幡宮、1989年)
- ^ 中村八幡宮と奥州伊達氏とのかかわり(中村八幡宮社務所)
- ^ a b 『伊達氏誕生』P162 亀岡八幡宮代参八幡氏由緒(松浦丹次郎、土龍舎、1982年)
- ^ 『源義経周辺系図解説』P80 伊達氏系図(批評社、2016年)
- ^ 真岡市史案内第4号・P73「中村氏の墓所」
- ^ 伊達氏の源流の地、土生慶子(宝文堂、1997年)ISBN 4-83230065-2
- ^ 産経新聞THE SANKEI NEWS 坂東武士の系譜・中村玄角
注釈
- ^ 5代目当主中村経長により当寺に改葬される。
- ^ 伊達為重娘の伊達尼を妻とし為重の養子となる。
- ^ 幼名については『郷土沿革史』には亀王といった名も見受けられるが詳細な出典は記載されていない。
- ^ 中村氏側史料では朝宗の子為重(宗村)、伊達氏側史料では朝宗とされる。また『伊達氏と中村八幡宮』では、伊達氏の始祖が宗村では『尊卑分脈』の藤原朝宗に系図を繋げられないから、中村常陸入道念西を朝宗としたのではないかとの説を掲げている。
- ^ 『吾妻鏡』は、念西の二男を常陸次郎為重とする。但し、中村氏側の伝承では念西は宗村とされているので矛盾はしていない。
- ^ 伊達氏側史料では朝宗が伊達氏を称し、三男資綱が下野国芳賀郡中村に住したとしている。
関連項目
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中村氏(鎌倉~戦国時代・下野中村) | | |
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中村氏(江戸時代以降・宇都宮) |
- 国長
- 吉兵衛
- 吉兵衛
- 吉兵衛
- 吉兵衛
- 吉兵衛
- 吉兵衛
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- 吉左ヱ門
- 林平
- 稲治
- 国四郎
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中村城主 | |
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