ロバート2世 (Robert II, 1316年 3月2日 - 1390年 4月19日 [1] )は、スコットランド 王(在位:1371年 - 1390年)。ステュアート朝 の初代国王。第6代スコットランド執事長のウォルター・ステュアート (英語版 ) とロバート1世 の娘マージョリー・ブルース (英語版 ) の子。
生涯
家名のステュワート(Stewart)は1150年 、初代のウォルター・フィッツアランがデイヴィッド1世 よりスコットランド王室執事長(Lord High Steward)に任命され、これを代々世襲してその職名の執事 (Steward)から名乗ったものである。後にメアリー女王 がフランス 好みから綴りをステュアート(Stuart)に変えた。
母マージョリーは1316年 、ロバートの出生後まもなく死去した[2] 。父ウォルターも1326年 に死去し、ロバートはわずか10歳でスコットランド執事長の地位を継承した[2] 。
1318年 、スコットランド議会 は、ロバート1世が世継ぎの男子なしで崩御 した場合には、マージョリーの息子に王位が与えられると定めたが、1324年 に息子デイヴィッドが生まれ、1329年 にデイヴィッド2世 として王位に就いた。しかし1371年 にデイヴィッド2世は子のないまま崩御し、デイヴィッド2世のフランス亡命中に摂政として実質的にスコットランド国内を統治していたロバート2世が新たに王位に就き、ステュアート朝を開いた。
即位時すでに54歳であったロバートは健康状態が非常に悪く、ほとんど盲目であり、「Old Blearie」(霞み目爺さん)とさえ呼ばれていた[3] 。在位中、先王デイヴィッド2世のイングランドへの身代金の支払いや、ダグラス家 とパーシー家 の抗争などの大きな問題を抱えていたが[4] 、老齢のロバートはほとんど業績を残せず[5] 、その息子たちが実権を握った。
子女
1347年 11月22日、サー・アダム・ミュアの娘エリザベス・ミュア (英語版 ) と結婚した。
ジョン (1337年 - 1406年 ) - スコットランド王ロバート3世
ウォルター(1338年 頃 - 1362年 ) - ファイフ 伯、10代ファイフ伯ダンカンの娘エリザベスと結婚。
ロバート (1340年 -1420年 ) - オールバニ 公
アレグザンダー(1342/3年 - 1406年 ) - バカン伯、「バドノッホの狼」とよばれた
マーガレット - イール卿ジョン・マクドナルドと結婚
マージョリー - マリ 伯ジョン・ダンバーと結婚
エリザベス - 第7代エロル卿トマス・ヘイと結婚
ジーン - サー・ジョン・キース、次いでサー・ジョン・ライアン、次いでサー・ジェームズ・サンディランズと結婚した。2度目の結婚を通して、イギリス王太后エリザベス の先祖の一人である。
イザベル - 第2代ダグラス伯ジェームズ、次いでサー・ジョン・エドモンドストンと結婚
1355年 5月2日、ロス伯ヒューの娘ユーフィミア・ドゥ・ロス (英語版 ) (第3代マリ伯ジョン・ランダルフ未亡人)と結婚し、2男2女を儲けた。
以下の庶子がいた。
引用
^ Robert II king of Scotland Encyclopædia Britannica
^ a b 森、p. 150
^ トランター、p. 157
^ 森、p. 151
^ 森、p. 153
参考文献
N.トランター 『スコットランド物語』 大修館書店、1997年
森護 『スコットランド王室史話』 大修館書店、1988年
1603年の王冠連合 後のイングランド及びスコットランドの君主