ランカスター伯爵(英語: Earl of Lancaster)は、イングランド貴族の伯爵位。
歴史
ヘンリー3世の次男エドマンド(クラウチバック)(1245-1296)は、1267年6月30日にイングランド北西部ランカスター地域に莫大な所領を与えられ、ランカスター伯爵に叙された。これがランカスター家の創始となる。エドマンドはその2年前にレスター伯領やダービー伯領を受けていたので(1265年10月26日にはレスター伯に叙される[3])、その所領はダービー、スタッフォード、レスター、ノーサンプトン、トレント峡谷諸地域を中心とし、加えてランカシャーからヨークシャー沿岸、南ウェールズからスコットランド国境地帯までに及ぶ広大なものとなった。
2代ランカスター伯トマス(1278頃-1322)は、従兄弟にあたる国王エドワード2世の寵臣政治に反抗し、国王にバラブリッジの戦いを仕掛けるも敗れて処刑された。この際に爵位と所領は一時没収されたが、エドワード3世即位後の1329年にトマスの弟ヘンリー(1281頃-1345)に継承が認められた。
3代伯ヘンリーの息子である4代ランカスター伯ヘンリー・オブ・グロスモント(1310頃-1361)は、襲爵前の1337年3月16日にダービー伯に叙された[7][8]。父から三伯領を継承したのに加えて伯母アリス・ド・レイシー(英語版)(2代伯トマスの妻)からリンカーン伯領を継承し、1349年8月20日にはリンカーン伯に叙された[7][8]。またスコットランド戦争や百年戦争で戦功をあげたため、1351年3月6日にランカスター公に叙された[7][8]。
しかし初代ランカスター公ヘンリーには男子がなく、娘のブランシュが女子相続人だった。彼女は1359年にエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーント(1340-1399)と結婚した。このジョン・オブ・ゴーントは先立つ1342年9月20日にリッチモンド伯に叙されるとともに[9]、リッチモンド伯領を与えられていた。初代ランカスター公ヘンリーが死去するとその所領を継承し、1361年7月にはダービー伯[9]、同年8月にはランカスター伯の継承を認められ[9]、さらに1362年にはランカスター公に叙された。
この時点でジョン・オブ・ゴーントは、5つの伯爵領(自身が与えられたリッチモンド伯領、妻を通じてランカスター伯領・レスター伯領・ダービー伯領・リンカーン伯領)を保有していたことになる。その領地は東部ではノーフォークとサフォーク、南部ではサセックスとケントとサマセット、バークシャー、ウィルトシャー、ドーセット、ハンティンドンシャー、ハンプシャー、グロスターシャー、中部ではダービー、スタッフォードシャー、ウォリックシャー、タトバリ、レスター、ラトランド、ノッティンガムシャー、ノーサンプトンシャー、北部ではノーサンバランドシャー、ヨークシャー、ランカシャー、チェシャーという広大な範囲に及んだ。イングランドのみならずウェールズにも領地をもっていた。その地代総額は12,000ポンドを超えていた(当時の貴族の平均的地代総額は1,000ポンドから3,000ポンド)。
ジョン・オブ・ゴーントの長男ヘンリー・ボリングブルック(1367-1413)は、1380年に第7代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーンの女子相続人メアリー・ド・ブーンと結婚し、これによってウィルトシャー、グロスターシャー、ハートフォードシャー、ウェールズ西部に及ぶヘレフォード伯ハンフリー家の領地を相続することになった。この相続を基礎として1397年にはヘレフォード公爵に叙された。父ジョンの持つ上記の莫大な所領も合わせれば、ランカスター家はイングランド最大の貴族であった。
国王リチャード2世は絶大な力を持ったランカスター家に脅威を感じ、1398年にヘンリーを国外追放に追いやるとともに1399年のジョン・オブ・ゴーントの死去に際してその所領の没収を宣言した。これに反発したヘンリーはヨークシャー・ラヴェンスパに上陸して反撃に打って出てリチャード2世を撃破して代わって王位に就いた(ランカスター朝国王ヘンリー4世)。
これによりランカスター伯位を含むその保有爵位は王冠にマージされることとなった。
ランカスター伯 (1267年)
家系図
出典
参考文献