ランカスター伯爵

ランカスター伯爵
初代ランカスター伯爵エドマンド・クラウチバックの紋章
創設時期1267年6月30日 (1267-06-30)
創設者ヘンリー3世
貴族イングランド貴族
初代エドマンド・クラウチバック
最終保有者ヘンリー・ポリングブルック
付随称号レスター伯
現況王冠に統合
邸宅ランカスター城英語版

ランカスター伯爵英語: Earl of Lancaster)は、イングランド貴族伯爵位。

歴史

ヘンリー3世の次男エドマンド(クラウチバック)(1245-1296)は、1267年6月30日にイングランド北西部ランカスター地域に莫大な所領を与えられ、ランカスター伯爵に叙された。これがランカスター家の創始となる[1][2]。エドマンドはその2年前にレスター伯領やダービー伯領を受けていたので(1265年10月26日にはレスター伯に叙される[3])、その所領はダービー、スタッフォード、レスター、ノーサンプトン、トレント峡谷諸地域を中心とし、加えてランカシャーからヨークシャー沿岸、南ウェールズからスコットランド国境地帯までに及ぶ広大なものとなった[4]

2代ランカスター伯トマス(1278頃-1322)は、従兄弟にあたる国王エドワード2世の寵臣政治に反抗し、国王にバラブリッジの戦いを仕掛けるも敗れて処刑された[5]。この際に爵位と所領は一時没収されたが、エドワード3世即位後の1329年にトマスの弟ヘンリー(1281頃-1345)に継承が認められた[6]

3代伯ヘンリーの息子である4代ランカスター伯ヘンリー・オブ・グロスモント(1310頃-1361)は、襲爵前の1337年3月16日にダービー伯に叙された[7][8]。父から三伯領を継承したのに加えて伯母アリス・ド・レイシー英語版(2代伯トマスの妻)からリンカーン伯領を継承し[2]1349年8月20日にはリンカーン伯に叙された[7][8]。またスコットランド戦争や百年戦争で戦功をあげたため[2][6]1351年3月6日ランカスター公に叙された[7][8]

しかし初代ランカスター公ヘンリーには男子がなく、娘のブランシュが女子相続人だった。彼女は1359年にエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーント(1340-1399)と結婚した[6]。このジョン・オブ・ゴーントは先立つ1342年9月20日にリッチモンド伯に叙されるとともに[9]、リッチモンド伯領を与えられていた[6]。初代ランカスター公ヘンリーが死去するとその所領を継承し、1361年7月にはダービー伯[9]、同年8月にはランカスター伯の継承を認められ[9]、さらに1362年にはランカスター公に叙された[6][2]

この時点でジョン・オブ・ゴーントは、5つの伯爵領(自身が与えられたリッチモンド伯領、妻を通じてランカスター伯領・レスター伯領・ダービー伯領・リンカーン伯領)を保有していたことになる。その領地は東部ではノーフォークとサフォーク、南部ではサセックスとケントとサマセット、バークシャー、ウィルトシャー、ドーセット、ハンティンドンシャー、ハンプシャー、グロスターシャー、中部ではダービー、スタッフォードシャー、ウォリックシャー、タトバリ、レスター、ラトランド、ノッティンガムシャー、ノーサンプトンシャー、北部ではノーサンバランドシャー、ヨークシャー、ランカシャー、チェシャーという広大な範囲に及んだ。イングランドのみならずウェールズにも領地をもっていた。その地代総額は12,000ポンドを超えていた(当時の貴族の平均的地代総額は1,000ポンドから3,000ポンド)[10]

ジョン・オブ・ゴーントの長男ヘンリー・ボリングブルック(1367-1413)は、1380年に第7代ヘレフォード伯英語版ハンフリー・ド・ブーンの女子相続人メアリー・ド・ブーンと結婚し、これによってウィルトシャー、グロスターシャー、ハートフォードシャー、ウェールズ西部に及ぶヘレフォード伯ハンフリー家の領地を相続することになった。この相続を基礎として1397年にはヘレフォード公爵に叙された[10]。父ジョンの持つ上記の莫大な所領も合わせれば、ランカスター家はイングランド最大の貴族であった[10]

国王リチャード2世は絶大な力を持ったランカスター家に脅威を感じ、1398年にヘンリーを国外追放に追いやるとともに1399年のジョン・オブ・ゴーントの死去に際してその所領の没収を宣言した。これに反発したヘンリーはヨークシャー・ラヴェンスパに上陸して反撃に打って出てリチャード2世を撃破して代わって王位に就いた(ランカスター朝国王ヘンリー4世)[11][12]

これによりランカスター伯位を含むその保有爵位は王冠にマージされることとなった。

ランカスター伯 (1267年)

画像 名前 受爵期間 備考
初代ランカスター伯
エドマンド(クラウチバック)
(1245-1296)
1267年6月30日
-1296年6月5日
ヘンリー3世の次男
1265年にレスター伯
2代ランカスター伯
トマス
(1278頃-1322)
1298年9月8日
-1322年3月22日
先代の息子
バラブリッジの戦いに敗れて処刑
3代ランカスター伯
ヘンリー
(1281頃-1345)
1326年10月26日
-1345年9月22日
先代の弟
4代ランカスター伯
初代ランカスター公
ヘンリー(オブ・グロスモント)
(1310頃-1361)
1345年9月22日
-1361年3月23日
先代の息子
1337年にダービー伯
1349年にリンカーン伯
1351年にランカスター公
5代ランカスター伯
初代ランカスター公
ジョン(オブ・ゴーント)
(1340-1399)
1361年8月14日
-1399年2月3日
先代の娘婿
エドワード3世の三男
1342年にリッチモンド伯
1362年にランカスター公
6代ランカスター伯
2代ランカスター公
ヘンリー(ボリングブルック)
(1367-1413)
1399年2月3日
-1399年9月30日
先代の息子
1397年にヘレフォード公
1399年にヘンリー4世に即位

家系図

ランカスター伯爵・ランカスター公爵系図
ヘンリー3世
(1207–1272)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランカスター伯, 1267年
エドワード1世
(1239-1307)
 
 
 
 
初代ランカスター伯
エドマンド

(1245–1296)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード2世
(1284–1327)
 
 
2代ランカスター伯
トマス

(1278頃–1322)
 
3代ランカスター伯
ヘンリー

(1281頃–1345)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランカスター公, 1351年
エドワード3世
(1312–1377)
 
 
 
 
 
 
4代ランカスター伯
ヘンリー・オブ・グロスモント

(1310頃–1361)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランカスター公, 1362年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代ランカスター伯
初代ランカスター公
ジョン・オブ・ゴーント

(1340–1399)
 
ブランシュ・オブ・ランカスター
(1345–1368)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代ランカスター伯
2代ランカスター公
ヘンリー・ボリングブルック

(ヘンリー4世)
(1367–1413)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランカスター公, 1399年
 
 
 
 
 
 
 
初代ランカスター公
ヘンリー・オブ・モンマス

(ヘンリー5世)
(1386–1422)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー6世
(1421–1471)

出典

  1. ^ 尾野比左夫 1992, p. 16.
  2. ^ a b c d 青山吉信(編) 1991, p. 444.
  3. ^ Lundy, Darryl. “Edmund 'Crouchback' Plantagenet, Earl of Leicester” (英語). thepeerage.com. 2016年4月25日閲覧。
  4. ^ 尾野比左夫 1992, p. 16-17.
  5. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 290.
  6. ^ a b c d e 尾野比左夫 1992, p. 17.
  7. ^ a b c Heraldic Media Limited. “The Early House of Plantagenet (1154 - 1327)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年4月25日閲覧。
  8. ^ a b c Lundy, Darryl. “Henry Grosmont of Derby Plantagenet, 1st Duke of Lancaster” (英語). thepeerage.com. 2016年4月25日閲覧。
  9. ^ a b c Lundy, Darryl. “John of Gaunt, Duke of Lancaster” (英語). thepeerage.com. 2016年4月25日閲覧。
  10. ^ a b c 尾野比左夫 1992, p. 18.
  11. ^ 尾野比左夫 1992, p. 18-19.
  12. ^ 青山吉信(編) 1991, p. 444-445.

参考文献

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!