メアリー・ジェーン・ケリー(英: Mary Jane Kelly、1863年頃 - 1888年11月9日、またの名をマリー・ジャネット・ケリー <英: Marie Jeanette Kelly>、フェアー・エマ <英: Fair Emma>、ジンジャー <英: Ginger>、ダーク・メアリー <英: Dark Mary>、ブラック・メアリー <英: Black Mary>)は、連続殺人者の切り裂きジャックの最後の被害者と考えられている。殺害された当時、ケリーはおよそ25歳で、貧しい生活を送っていた。
生涯
他の切り裂きジャックの被害者と比べると、ケリーの出自は文献に記録が無く曖昧であって、出自にまつわる情報のほとんどは装飾である可能性もある。ケリーが自身の幼い頃の話を捏造していた可能性もある。それを裏付ける証拠書類が存在しないためである。ただし、ケリーの話の反証となる証拠も存在しない[1]。ケリーが殺害される前にケリーと一緒に暮らした最後の男性であるジョセフ・バーネット (英: Joseph Barnett) によれば、ケリーは自身が1863年頃にアイルランドのリムリックで生まれ、幼い頃に家族でウェールズに転居したと語ったという。ケリーの言うリムリックが市の方か、県の方かは不明である[2]。
バーネットによれば、ケリーは自分の父はジョン・ケリー (英: John Kelly) という名前で、カーナーヴォンシャー(英語版)かカーマーゼンシャーにある製鉄所で働いていたと語ったという[3]。ケリーには7人の兄弟と少なくとも1人の姉妹がいたとも話していたという[4]。兄弟の1人のヘンリー (英: Henry) はスコッツガーズ第2大隊に所属していたという[3]。ケリーは一度、友人のリジー・アルブルック (英: Lizzie Albrook) に、家族の一人がロンドンの劇場のステージで仕事をしていると話したという。ケリーの下宿の大家のジョン・マッカーシー (英: John McCarthy) は、ケリーは稀にアイルランドからの通信を受け取っていたと主張した[5]。
バーネットがケリーの元を最後に訪れたのは11月8日の午後7時から午後8時のことだった。ケリーは友人のマリア・ハーヴェイ (英: Maria Harvey) と一緒にいた。ハーヴェイとバーネットは同程度の時刻にケリーの元を去った[17]。バーネットは自分のロッジングハウスに戻り、午前0時30分頃に就寝するまで他の住人とカード遊びをしていた[18]。
ミラーズ・コートの住人で売春婦であり、「未亡人で運が悪い」[19]と自称するメアリー・アン・コックス (英: Mary Ann Cox) は、午後11時45分頃に酔っ払ったケリーが男と一緒に自宅に戻ってきたのを目撃したと報告している。その男は太っていて、髪は生姜色で、山高帽を被っており、ビールの缶を持っていたという。コックスとケリーは互いにおやすみの挨拶を交わした。ケリーはその男と一緒に部屋に入り、それから"A Violet I Plucked from Mother's Grave When a Boy"という歌を歌い始めた。コックスが午前0時に外出し、1時間後に戻ってきたときも、ケリーはまだ歌を歌っていた[20]。ケリーの上の部屋に住むエリザベス・プラター (英: Elizabeth Prater) が午前1時30分に就寝したとき、歌はやんでいた[21]。
ケリーと知り合いだった労働者のジョージ・ハチンソン (英: George Hutchinson) は、午前2時頃にケリーと会い、ケリーが6ペンス貸してくれないか頼んできたと報告した。ハチンソンは持ち合わせがなく、ケリーが立ち去ると、ユダヤ人の格好をした男がケリーの方に近付いてきたという。後に、ハチンソンは警察に対してその男について極めて詳細に説明し、真夜中のことだったにもかかわらずまつげの色まで説明した[22]。ハチンソンは、ミラーズ・コートの向かいの通りで2人が会話していたのを立ち聞きしたと報告した。ケリーはハンカチを無くしたことについて不平を言い、男は自分の赤いハンカチを与えたという。ハチンソンは、ケリーと男はケリーの部屋へ向かっていったと主張した。ハチンソンは2人の後をつけ、それから2人の姿を見ることは二度となかったという。ハチンソンは腕時計が午前2時45分頃をさしていたときに切り上げたという[23]。ハチンソンの証言は、洗濯女のセアラ・ルイス (英: Sarah Lewis) の証言により部分的に補強されていたようだ。ルイスは、友人のケイラー (英: Keyler) 一家と夜を過ごそうとしていた道すがら、午前2時30分頃にミラーズ・コートを通り過ぎ、そのときにミラーズ・コートの入り口を見ていた男を目撃したと報告した[24]。ハチンソンは、ケリーは件の男と知り合いだったようではあるものの、その人物が疑わしいと主張していた。ハチンソンによると、その人物の富裕そうな外見は近隣では非常に珍しいものだったという。しかし、ハチンソンの話はケリーについての検死審問が慌しく終結した後に警察に伝えられた[25]。捜査を担当したフレデリック・アバーライン (英: Frederick Abberline) はハチンソンの情報は重要であると考え、件の男を発見できるように警察と一緒にハチンソンを送り出した[26]。現存する警察の記録には、ハチンソンの名前が再び出てくることはない。そのため、ハチンソンの証言が最後には退けられたのか、反証が見つかったのか、それとも確証が得られたのかははっきりしない[25]。ウォルター・デュー(英語版) (英: Walter Dew) は自身の回顧録でハチンソンの証言は信憑性が低いと記していた。デューによれば、ハチンソンが男を目撃したのは実際はケリーが殺害された日とは別の日だったという[27]。犯罪捜査局 (CID) の刑事部長のロバート・アンダーソン(英語版) (英: Robert Anderson) は後に、殺人者をよく見ていた唯一の目撃者はユダヤ人だったと主張した。ハチンソンはユダヤ人ではないため、アンダーソンの言う目撃者ではないということになる[28]。現代の学者の一部はハチンソンこそが切り裂きジャックであるという説を提唱している。ハチンソンは偽証により警察を混乱させようとしていたというのである。しかし、ハチンソンは報道機関に自分の話を売るために目撃談を創作しただけの目立ちたがり屋だったという説を唱える学者もいる[29]。
1888年11月9日は年に一度のロンドン市長就任式の祝宴の日だった。その日の朝、ケリーの住居の大家のジョン・マッカーシーは助手の退役兵士のトーマス・ボーヤー (英: Thomas Bowyer) に家賃を集めに行かせた。ケリーは家賃の支払いを6週間分滞納しており、29シリング未払いだった[35]。午前10時45分直後、ボーヤーはケリーの部屋のドアをノックしたが、何の応答も無かった。ボーヤーは窓のひび割れに腕を入れ、カーテン替わりに使われているコートを押しのけて、部屋の中を覗き込んだ。そして、惨たらしく切り刻まれたケリーの遺体がベッドに横たわっているのを発見した[36]。
1888年11月10日のマンチェスター・ガーディアンは、狂乱したボーヤーからの通報を受けてエドワード・バダム(英語版) (英: Edward Badham) 巡査部長がウォルター・ベック (英: Walter Beck) 警部補とともにミラーズ・コート13番地へ向かったことを報じた。ベックは検死審問で自分が最初に犯行現場を訪れた警察官であると述べた。バダムも一緒に現場に来ていた可能性がある。しかし、バダムがベックと一緒にいたことを示す公式の記録は存在しない。エドワード・バタムは1888年11月12日の夜にコマーシャル・ストリート警察署で勤務中だった。メアリー・ケリー殺害の検死審問はその日の午後6時頃に終わった。バダムの勤務時刻はそれよりも後のことである。このときにジョージ・ハチンソンが警察署に来て、バダムに最初の証言を行った[37]。
地元のロッジングハウスの管理人代理の妻のキャロライン・マクスウェル (英: Caroline Maxwell) は、殺人事件のあった朝の午前8時30分に生きているケリーを目撃したと主張した。ただし、マクスウェルは以前にケリーに1度か2度しか会ったことがないことを認めていた[38]。しかも、マクスウェルの説明はケリーともっと親しい人物による説明と一致していなかった。洋服屋のモーリス・ルイス (英: Maurice Lewis) は、同日の午前10時頃にパブでケリーを見かけたと報告した。この2人の証言は警察から却下された。想定されていた死亡時刻と適合しておらず、また、その報告の確証となる目撃者が他に発見できなかったためである[39]。マクスウェルは別人をケリーと間違えたか、ケリーを目撃した日を取り違えていた可能性がある[40]。この混乱はグラフィックノベル『フロム・ヘル』(およびそれを翻案した映画) で筋書きに利用された。
ホワイトチャペルのH地区からトーマス・アーノルド(英語版) (英: Thomas Arnold) 警視とエドマンド・リード(英語版) (英: Edmund Reid) 警部補が現場に来た。スコットランドヤードのフレデリック・アバーラインとロバート・アンダーソンも現場に訪れた。ケリーの部屋から出た殺人者をブラッドハウンドで追跡させる作戦を不可能であるとして却下した後、午後1時30分にアーノルドはケリーの部屋に強引に入った[41]。火床の中では火が激しく燃えており、火力の激しさの余りにやかんの注ぎ口の継ぎ目のはんだが溶けていた。見たところ、火床の中で衣服が燃やされて火の勢いが激しくなっていたようだった。アバーライン警部補は、ケリーの衣服は殺人者が明かりをとるために燃やしたと考えた。部屋の中には他には1本の蝋燭の薄ぼんやりとした光しか明かりがなかった[42]。
ケリーの遺体はホワイトチャペル殺人事件の中でも段違いに広範囲が切り刻まれていた。恐らく通りと比べると個室の中は蛮行を遂げるための十分な時間があったためだろう[43]。トーマス・ボンド(英語版) (英: Thomas Bond) 医師とジョージ・バグスター・フィリップス(英語版) (英: George Bagster Phillips) 医師がケリーの遺体を調査した。フィリップス[44]とボンド[45]は、ケリーは調査から約12時間前に死亡したと推測した。フィリップスは、遺体を広範囲にわたって切り刻むのに2時間かかっただろうと述べた[44]。ボンドは遺体を調査していたときに死後硬直が始まったと記した。このことは、ケリーは午前2時から午前8時に殺害されたことを示唆している[46]。ボンドは次のように記録した。
アバーラインはケリー殺害後にケリーの愛人のバーネットを4時間尋問した。バーネットの衣服も血痕がないか調査された。しかし、バーネットは告発されることなく釈放された[60]。ケリー殺害から1世紀後、著述家のポール・ハリソン (英: Paul Harrison) とブルース・ペーリー (英: Bruce Paley) は、バーネットが嫉妬からの怒りに駆られたか、ケリーから侮辱されたためにケリーを殺害したという説を提唱した。他の殺人事件もバーネットがケリーを怖がらせて通りへ出なくさせて売春をやめさせるために行ったと主張した[60]。同じくバーネットが犯人だが殺したのはケリーだけで、切り裂きジャックの犯行に見せかけるために遺体を切り刻んだという説を唱える著述家もいる[61]。アバーラインの捜査ではバーネットは無実と見なされたようである[62]。大家のジョン・マッカーシーや元愛人のジョセフ・フレミングといった他のケリーの知人にも疑いがかけられた[63]。また、ケリーの遺体が裸だったことと、畳まれた衣服が椅子の上に置かれていたことから、ケリーは自ら服を脱いでベッドに横になったという説も唱えられている。それが正しければ、ケリーの知人か客がケリーを殺害したか、ケリーが眠っているか酒で酔っ払っているときに襲ったと考えられる[64]。
2005年、著述家のトニー・ウィリアムズ (英: Tony Williams) が、レクサムの近隣のブラムボ(英語版)での1881年の国勢調査の回答用紙にケリーを発見したと主張した。この主張は、ブラムボの国勢調査に記録されているケリー一家の隣家にジョナサン・デーヴィス (英: Jonathan Davies) という独身男性が住んでいたことと、その人物はケリーが16歳のときに結婚したという"Davies"または"Davis"なる人物である可能性があることに基づいていた。この主張はほぼ間違いなく間違っている。ケリーの夫は結婚から2・3年後に死亡したという話だが、件のジョナサン・デーヴィスは1891年の国勢調査に現れる通り、そのときにはまだ存命でブラムボに住んでいた。いずれにせよ、バーネットが語るケリーの話と、1881年にブラムボに住んでいたケリー一家はほとんど一致しない。ブラムボはデンビーシャーにあるのであって、カーマーゼンやカーナーヴォンではない。ブラムボのケリー一家の父の名はヒューバート (英: Hubert) であってジョンではない。トニー・ウィリアムズの調査はジョン・ウィリアムズ(英語版) (英: John Williams) の日記に基づいているが、この日記に変更が加えられているという主張もある[65]。
作家のマーク・ダニエル (英: Mark Daniel) は、ケリーを殺害したのは宗教狂であり、ケリーをいけにえの儀式の一環で殺害したという説を提唱した。火床の火は明かりのためではなく、燔祭に使用されたと主張した[66]。また、1939年にウィリアム・スチュワート (英: William Stewart) は、ケリーは発狂した助産婦に殺害されたという説を提唱し、殺人者を「ジル・ザ・リッパー」(英: Jill the Ripper) と呼称した。スチュワートによれば、ケリーはこの殺人者の助産婦を堕胎のために雇ったという。また、殺人者は自分の服が血で汚れたため、火床で自分の服を燃やし、ケリーの服を着て逃走したという。マクスウェル夫人がケリーが殺害された後にケリーを目撃したと主張したが、この説によると実際はケリーではなくケリーの服を着た殺人者だったという[67]。しかし、スチュワートが自説を構築する際には閲覧できなかった医学報告書には、ケリーが妊娠していたという記述は無い。また、この仮説は全体的に推測に基づいている。
大衆文化への影響
ジョン・ブルックス・バリーの1975年の小説The Michaelmas Girlsでケリーが主要なキャラクターとして登場する。この小説のケリーは同性愛者の売春婦で、インポテンツでサディストの男に仲間の街娼を殺害させようと企む[68]。また、Retour à Whitechapelはフランスの歴史探偵小説で、切り裂きジャックの事件を元としている。作者はMichel Moattiで、ケリーの架空の娘のAmelia Pritloweを中心に物語が進む[69]。
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