マルコム・オーストラー

マルコム・オーストラー

Malcolm Oastler
生誕 (1959-04-24) 1959年4月24日(65歳)
オーストラリアの旗 オーストラリアシドニー
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
市民権 オーストラリア
教育 ニューサウスウェールズ大学
業績
専門分野 レースカー設計
勤務先 レイナード・グループ
雇用者 B・A・R(1998 - 2001)
ジャガー(2002 - 2004)
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マルコム・オーストラー(Malcolm Oastler、1959年4月24日 - )は、オーストラリアのレーシングカーデザイナー。F1チームBARの元テクニカルディレクター、ジャガー・レーシングの元チーフエンジニア。数多くのレースカーのデザインを手掛けた。

経歴

オーストラリアシドニーで生まれた[1]

若い頃からモータースポーツ愛好家であり、ドライバーであった彼は、シドニー工科大学機械工学の優等学位を取得し、オーストラリア・フォーミュラフォード選手権に出場し良い成績を残した[2]

ヨーロッパのモータースポーツシーンで勝負することを決意し、学位取得[3]後の1985年にイギリスに移住したが、財政的にはかなり苦労をした。

この間、ミニバイクからバスに至る様々な設計・製造に関連するような経験もしていた[2]

レイナードの雇用

英国のフォーミュラフォード2000のレースシートと引き換えに、レスターシャーのミルデントモータースポーツのメカニックとして働いていた1986年に、エンジニアリングの才能が認められ、デザイナーとしてレイナード社に加わり、1987年用のフォーミュラフォード車を設計し、エイドリアン・レイナードは「おそらくこれまでに作った中で最高のFF1600」と言わしめた[2]

それ以降は、フォーミュラフォード2000、F3000、インディカーなどのレーシングカテゴリーでレイナードのデザインチームのトップを務め、多くの設計スタッフを率いて結果を出し、車体投入年に勝利するというジンクスを生み出した。

フォーミュラ3000

入社2年目の1987年に起動した、F3000シリーズカーの設計プロジェクトは特に強力で、1989年のマーチの倒産とも絡み、結果的に、ビスター発のマーチの独占市場を完璧に継承するかたちになる。

シリーズ 出走 設計 チャンピオン 所属チーム 製造/車体 製造地 設計チーム トップ エンジン
国際F3000 1985 1984 クリスチャン・ダナー BSファブリケーションズ 16 マーチ 85B ビスター アラン・マーテンス コスワース
1986 1985 イヴァン・カペリ ジェノア・レーシング 19 マーチ 86B
1987 1986 ステファノ・モデナ オニクス 37 マーチ 87B
1988 1987 ロベルト・モレノ ブロムレイ・モータースポーツ レイナード 88D マルコム・オーストラー
1989 1988 ジャン・アレジ エディ・ジョーダン・レーシング レイナード 89D 無限
イギリスF3000 1989 1987 ゲイリー・ブラバム ブロムレイ・モータースポーツ レイナード 88D コスワース
国際F3000 (2位) 1990 1989 エリック・ヴァン・デ・ポール (2位) GAモータースポーツ レイナード 90D 無限
イギリスF3000 1990 1989 ペドロ・チャベス マンセル・マジウィック・モータースポーツ レイナード 90D コスワース
国際F3000 1991 1990 クリスチャン・フィッティパルディ パシフィック・レーシング レイナード 91D 無限
イギリスF3000 1991 1989 ポール・ワーウィック マンセル・マジウィック・モータースポーツ レイナード 90D コスワース
国際F3000 1992 1991 ルカ・バドエル クリプトン・エンジニアリング レイナード 92D
イギリスF2 1992 1991 イヴァン・ミュラー オメガランド レイナード 91D
国際F3000 1993 1992 オリビエ・パニス DAMS レイナード 93D
イギリスF2 1993 1990 フィリップ・アダムス マジウィック・インターナショナル レイナード 91D
1991 アルゴ・レーシング・カーズ レイナード 92D
国際F3000 1994 1993 ジャン=クリストフ・ブイヨン DAMS レイナード 94D
イギリスF2 1994 1991 ホセ・ルイス・ディ・パルマ AJSレーシング レイナード 92D
マジウィック・インターナショナル
国際F3000 1995 1994 ヴィンセンツォ・ソスピリ スーパーノヴァ・レーシング レイナード 95D
イギリスF2 1996 1994 ギャレス・リース 無限

オーストラーが手掛けるたシャシーデザインは5つのタイトルを獲得した。


インディカー

レイナード・95i
(1995年インディ500優勝車)

F3000の成功後、オーストラーはプロジェクトの開始からインディカーのデザインを主導した。彼のレイナード95Iシャーシは、インディ500を含む合計8レースで優勝し、ポールポジションから13回以上スタートしたが、彼の活動拠点は、レイナードの旧本部と呼ばれた、レイナード・センターでビスターのテルフォードロードにあった。

投入年 設計年 チャンピオン 所属チーム 車体/設計・製造 エンジン
(1992.11) 94Iプロジェクトスタート(1994年カー14台製造) ビスターで
設計・製造
INDY 1994年 1993 レイナード・94I
1995年 1994 ジャック・ヴィルヌーヴ チーム・グリーン レイナード・95I フォ-ド XB V8t
1996年 1885 ジミー・バッサー チップ・ガナッシ レイナード・96I ホンダ
CART 1997年 1996 アレックス・ザナルディ レイナード・97I
1998年 1997 レイナード・98I
1999年 1998 ファン・パブロ・モントーヤ レイナード・99I
2000年 1999 ジル・ド・フェラン ペンスキー レイナード・2KI ホンダ HR-0 V8t
2001年 2000 レイナード・01I
2002年 2001 景気後退で売れず

レイナードF1

ジャック・ヴィルヌーヴがドライブするBAR 01(1999年カナダGP)

1998年、オーストラーは、新しく結成されたレイナードの合弁チームのBARチームで、1998年に1999年用のBAR 01車の設計を行い、納車係としてチーフデザイナーの役割でレースチームに参加した。

1999年のシーズン中に、オーストラーはテクニカルディレクターの役割に昇進したが、2000年にはまた、チーフデザイナーの地位に戻った。

レイナードの倒産

2001年9月のニューヨークの悲劇を引き金となる、2002年初頭のレイナードの倒産劇が起こる。

旧本社の生き残りのために

コベントリー自動車博物館にて展示されているジャガー・R4

BARのレース・チーム運営は2002年にプロドライブに引き継がれ、オーストラーはジャガー・レーシングに移動し、2002年シーズンからレースカーの開発に携わり、R4, R5及びR6シャーシの設計に取り組み、 2003年2004年にジャガーのチーフエンジニアに任命された。

2004年のジャガーF1チームの激動の最終シーズン中に、R6シャーシの設計を終えて、オーストラーはプロのモータースポーツから引退することを決定し、チームは彼の貢献に感謝した[3]。 その後、故郷のオーストラリアに戻り、いくつかの田舎のベンチャー企業を設立した。

オーストラーは、オーストラリア国内のモータースポーツへの関心と関与を維持してきた。これには、彼が5回のチャンピオンであるカテゴリーであるオーストラリアヒルクライムチャンピオンシップへの参加も含まれる。

オーストラーはまた、YouTubeチャンネルを通じて、彼のさまざまな風変わりなエンジニアリングの冒険を公開している。

脚注

  1. ^ Reynard Motorsport Ltd - Malcolm Oastler”. web.archive.org (2001年3月3日). 2022年9月23日閲覧。
  2. ^ a b c Lunch with... Adrian Reynard”. Motor Sport. 2022年7月7日閲覧。
  3. ^ a b "Oastler retires"”. crash.net. 2021年12月30日閲覧。

外部リンク

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