マルコス・アロンソ・ペーニャ(Marcos Alonso Peña、1959年10月1日 - 2023年2月9日)は、スペイン・カンタブリア州サンタンデール出身の元同国代表サッカー選手、元サッカー指導者。ポジションはFWまたはMFだった。
現役時代は、主にアトレティコ・マドリードやFCバルセロナでプレーし、ラ・リーガには計13シーズン在籍して通算302試合4ゴールという結果を残した[1]。
選手経歴
クラブ
カンタブリア州のサンタンデールに生まれ、レアル・マドリードの下部組織で育成された。しかし、レアル・マドリードではトップチーム昇格は叶わず、1977-78シーズンに地元の強豪クラブであるラシン・サンタンデールにてプロデビューを果たした。プロ2年目からレギュラーに定着し、19歳ながらプリメーラの舞台で34試合4ゴールと結果を残した。アロンソ以外にもオルランド・ヒメネスが11ゴールを挙げるなど、攻撃陣は奮闘したが、失点の勢いが止まらず、シーズン終了を待たずしてラシン・サンタンデールはセグンダ降格が決定した。
1979年7月、アトレティコ・マドリードへ移籍した[2]。1シーズン目からレギュラーの座を掴み、2シーズン目にはFCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐリーグ3位フィニッシュに大きく貢献し、同シーズン中にスペイン代表から初招集を受けた。3シーズン目には前線にウーゴ・サンチェスが加わり、サンチェスとアロンソの2人はアトレティコの攻撃を牽引するほどの選手になった。
アトレティコでの活躍から、1982年にFCバルセロナへと移籍[3]。加入後すぐにチームの中心選手となり、1年目はリーグ4位に終わるも、コパ・デル・レイとコパ・デ・ラ・リーガ優勝を果たし、国内カップ2冠を成し遂げた。2シーズン目は、自身のキャリアハイ、そしてキャリア唯一のリーグ2桁得点となる12ゴールを叩き出し、チームトップの得点数を稼いだ。翌1984-85シーズン、バルセロナは実に9シーズンぶりとなるリーガ優勝を達成したが、アロンソ自身はスティーブ・アーチボルドの加入などもあって出場機会を減らした。出番の減少はその後も続き、1986-87シーズン終了後にバルセロナを退団した[2]。
1987年7月、古巣のアトレティコ・マドリードに復帰した[4]。加入当初こそリーグ26試合で2ゴールとまずまずの成績を残したものの、2年目に膝に大怪我を負い、シーズンわずか3試合の出場、3年目には冬の1月までリーグ戦出場が皆無になるなど、構想外のような扱いを受けた。その1989-90シーズンの冬の移籍市場でアトレティコを去り、CDログロニェスに加入した。しかし、ログロニェスでも状況が好転せず、シーズン終了後およそ半年でログロニェスを退団した。
1991年4月、フリーとなっていたアロンソは自身がプロデビューを果たしたクラブ、ラシン・サンタンデールに加入した。当時セグンダB所属と、低迷した古巣への復帰となったが、怪我の影響などもあって満足いく出場機会が得られず、シーズン終了時にクラブを去り、31歳で現役を引退した[4]。一方、ラシン・サンタンデールはセグンダBで優勝を果たしてセグンダ昇格を決めている。
代表
1979年7月、FIFA U-20ワールドカップを戦うスペイン代表に選ばれ、3試合に出場した。しかし、ベスト8のポーランド戦にてPK戦の末敗れ、大会を後にした。
1980年6月、当時アトレティコ・マドリードに在籍していたアロンソは、齢20歳ながらレギュラーとして活躍していたため、この年の1980年モスクワオリンピックを戦うスペイン代表に選出された。本大会ではグループリーグ全3試合に出場して、初戦の東ドイツ戦を引き分けに持ち込む同点弾を決めた。しかし、スペインはグループリーグ全3試合を全て引き分けで終えたため、大会敗退が決まった。
オリンピックから1年経たない1981年3月25日、イングランド代表との親善試合でスペインフル代表デビューを飾った[5]。その後も定期的に代表招集を貰い続けていたが、1982 FIFAワールドカップに出場するスペイン代表メンバー23人からは落選した。大会終了後、UEFA欧州選手権1984出場を目的にFCバルセロナへとステップアップしたアロンソは、UEFA欧州選手権1984予選を戦うスペイン代表のレギュラーに定着し、マルタ戦などの奇跡もあって、無事に本大会出場権を獲得した[4]。しかし、1984年頃からレギュラーの座を奪われ、本大会には参加できたものの、出場機会は掴めなかった。欧州選手権終了後、クラブでの不遇もあって徐々に代表から遠のき、1985年9月25日のアイスランド戦を最後に代表から退いた[4]。
指導者経歴
現役を引退後、アロンソはすぐに指導者に転身した。指導者キャリア初の仕事は、1994年から始まり、当時アトレティコ・マドリードの監督を務めていたホルヘ・ダレッサンドロのアシスタントコーチだった。翌年の1995年10月、ラージョ・バジェカーノから監督就任の打診を受け、自身初となる監督に就いた[6]。シーズン途中就任だったが、序盤こそ安定した成績を残すも、4月からの4連敗などもあって、5月5日のレアル・バリャドリード戦を最後に解任された。
1996-97シーズンは、古巣ラシン・サンタンデールを指揮。フルシーズンを戦い42試合11勝17分14敗とまずまずの結果を残した。1998年には当時セグンダ・ディビシオンに降格していたセビージャFCの監督に就任。プリメーラ復帰が絶対条件だったクラブにおいて、昇格プレーオフを経て、セビージャをプリメーラ復帰に導いた[7]。翌シーズンもセビージャの指揮を執ったが、2000年3月に解任された。
2000年10月、当時セグンダに落ち、低迷していたアトレティコ・マドリードの監督に就任した。リーグ第6節からの采配となり、昇格が期待されたが、4月に成績不振によってまたもや解任されてしまった。その後アトレティコは立て直し、CDテネリフェと同点の勝ち点74を稼いだが、テネリフェとの得失点差1によってプリメーラ昇格を逃してしまった。
アトレティコ・マドリード退任以降は、レアル・サラゴサやレアル・バリャドリード、マラガCFを率いたが、2008年のグラナダ74CF解任以降は監督業から離れた[6]。
人物
- 2011年からはスポーツ製品を扱う企業であるプーマのスペイン、イタリア、ポルトガルにおけるマーケティング責任者を務める[6]。
エピソード
- 自身はアトレティコ・マドリードのサポータであり、妻の家族も全員がアトレティコサポーターだったことから、息子のマルコス・アロンソ・メンドーサをアトレティコの下部組織に入団させようとしたが、メンドーサはより高いレベルの指導を受けられるとしてレアル・マドリードの下部組織に加入した[8]。
個人成績
クラブ
- 2021年3月17日現在[9]
クラブ
|
シーズン
|
リーグ戦
|
国王杯
|
UEFA大会
|
その他
|
合計
|
ディヴィジョン |
試合 |
得点 |
試合 |
得点 |
試合 |
得点 |
試合 |
得点 |
試合 |
得点
|
ラシン・サンタンデール
|
1977-78 |
プリメーラ
|
17 |
1 |
5 |
0 |
- |
0 |
0 |
22 |
1
|
1978-79
|
34 |
4 |
8 |
2 |
- |
0 |
0 |
44 |
6
|
クラブ通算 |
51 |
5 |
13 |
2 |
- |
0 |
0 |
64 |
7
|
アトレティコ・マドリード
|
1979-80 |
プリメーラ
|
29 |
1 |
10 |
2 |
1 |
0 |
0 |
0 |
40 |
3
|
1980-81
|
32 |
4 |
3 |
1 |
- |
0 |
0 |
35 |
5
|
1981-82
|
29 |
5 |
4 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
35 |
4
|
クラブ通算 |
110 |
12 |
17 |
3 |
3 |
0 |
0 |
0 |
130 |
15
|
バルセロナ
|
1982-83 |
プリメーラ
|
30 |
6 |
6 |
2 |
6 |
1 |
6 |
1 |
48 |
10
|
1983-84
|
34 |
12 |
5 |
0 |
5 |
0 |
0 |
0 |
44 |
12
|
1984-85
|
18 |
4 |
6 |
3 |
- |
4 |
3 |
28 |
10
|
1985-86
|
16 |
5 |
3 |
0 |
9 |
1 |
0 |
0 |
28 |
6
|
1986-87
|
26 |
1 |
2 |
0 |
6 |
0 |
0 |
0 |
34 |
1
|
クラブ通算 |
124 |
28 |
22 |
5 |
26 |
2 |
10 |
4 |
182 |
39
|
アトレティコ・マドリード
|
1987-88 |
プリメーラ
|
26 |
2 |
4 |
0 |
- |
0 |
0 |
30 |
2
|
1988-89
|
3 |
0 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
3 |
0
|
1989-90
|
0 |
0 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
クラブ通算 |
29 |
2 |
4 |
0 |
- |
0 |
0 |
33 |
2
|
ログロニェス
|
1989-90 |
プリメーラ
|
8 |
1 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
8 |
1
|
ラシン・サンタンデール
|
1990-91 |
セグンダB
|
7 |
3 |
0 |
0 |
- |
5 |
0 |
12 |
3
|
キャリア通算 |
309 |
49 |
56 |
10 |
29 |
2 |
15 |
4 |
409 |
65
|
代表
出場大会
試合数
Aマッチ 22試合 1得点 (1981年 - 1985年)
スペイン代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
1981 |
5 |
0
|
1982 |
2 |
0
|
1983 |
6 |
0
|
1984 |
1 |
0
|
1985 |
3 |
1
|
通算
|
22 |
1
|
得点
タイトル
クラブ
- FCバルセロナ
- ラシン・サンタンデール
脚注
関連項目
外部リンク
監督歴 |
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アスレティック・マドリード時代 | |
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アスレティック・アビアシオン時代 | |
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アトレティコ・アビアシオン時代 | |
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アトレティコ・マドリード時代 | |
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