フェリペ・ゴンサレスはセビリアで酪農を営む家の息子として生まれる。その後セビリア大学で法学を専攻し、労働関係を専門とする弁護士として活動する。大学在学時、ゴンサレスは当時秘密組織として活動していた労働者団体 UGT (Unión General de Trabajadores) の構成員に出会う。また社会労働党員とも接触するようになり、ゴンサレス自身も社会労働党の秘密活動に参加していくようになった。ゴンサレスは「イシドロ」(Isidoro) という偽名を使い、マドリードに拠点を移した。ゴンサレスはフランスのシュレーヌでの党大会で書記長に選出される。フランシスコ・フランコが死亡すると、ゴンサレスは独裁体制の残存勢力に対する反対運動を率い、また当時首相を務めていたアドルフォ・スアレスとともに民主化の中心として活躍する。フランコの死後、初となる民主的な総選挙が1977年に行なわれ、社会労働党は得票数で第2党となり、この結果を受けてゴンサレスは若く、将来が有望視される指導者として頭角を現すようになった。1979年の選挙では勝利を収めることができなかったが、1982年の総選挙で民主中道連合が大敗・崩壊し、これを受けて社会労働党とゴンサレスは政治の中心に立つこととなった。
1995年末にかけて、次期総選挙をゴンサレスが率いるべきかどうかという議論が起こった。国民党は不景気[2]を指摘し、また汚職や GAL によるバスク祖国と自由との戦闘など、テロへの政府の関与を挙げながら、ゴンサレス政権に終止符を打つという呼びかけを強めていった。メディアは当時外相を務めていたハビエル・ソラナがゴンサレスの後任になるのではないかと伝えていたが、ソラナは1995年12月に北大西洋条約機構の事務総長に就任した。
ゴンサレスは1986年の欧州諸共同体加盟や民主化の強化に大きな役割を果たした。またフランソワ・ミッテランとヘルムート・コールとともにヨーロッパの顔としても活躍した。テロリストとの対決では警察による強力な作戦でテロリストを脱落させることでテロ組織「バスク祖国と自由」(ETA) を弱体化させるなどの成果を挙げた。また1992年には ETA の武器庫やキュポラの制圧にも成功している。
1996年5月4日、ゴンサレスは4期にわたった首相としての任期を終えた。1996年9月以降、ゴンサレスはマドリードに拠点を置く Fundación Progreso Global の代表を務めている。1997年6月20日に開かれた第34回社会労働党全国大会の冒頭でゴンサレスは書記長を辞任することを明らかにして驚かせた。また代議院議員としての活動は続けるものの、党の連邦執行委員会の役職も辞任した。しかしながら明確な後継者がいないため、ゴンサレスはなおも党内で強大な影響力を持ち続けていた。結局、2000年7月に行なわれた35回目の党大会でホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテーロが書記長につくまでゴンサレスは党の指導者でありつづけた。
^ただし当時の失業率には改善が見られ、過去10年間の経済改革によって経済成長は続いていた。“Tasas de variación interanuales” (xls) (スペイン語). Instituto Nacional de Estadística. 2009年6月26日閲覧。
^Antonia Iglesias, María (スペイン語). La memoria recuperada. Lo que nunca han contado Felipe González y los dirigentes socialistas. Aguilar. ISBN978-8403093553