フィリップ・ルートヴィヒ(Philipp Ludwig von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Wiesenburg, 1620年10月27日 - 1689年3月10日)は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ヴィーゼンブルク家の初代公爵。ゾンダーブルク家の一員で、ツヴィッカウの近隣に建つヴィーゼンブルク城(ドイツ語版)を入手した。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公アレクサンダーとその妻でシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯ヨハン・ギュンター1世(ドイツ語版)の娘であるドロテアの間の末息子として生まれた。
ヘッセン方伯諸家の宮廷を転々としながら青年時代を過ごした。1663年、非常に仲の良い友人だったザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク2世から、ヴィーゼンブルク(ドイツ語版)の荘園と城館、及びキルヒベルク(ドイツ語版)の町と20の農村を与えられた。ヴィーゼンブルク城(ドイツ語版)が彼の居所となり、この城の名前が家名として使用された。
1668年、ルター派神学者ヨハン・ヴィンクラー(ドイツ語版)を自分の息子たちの家庭教師としてヴィーゼンブルク城に呼び寄せた。シュネーベルク(ドイツ語版)とノイシュテッテル(ドイツ語版)での鉱山経営に成功したことでフィリップ・ルートヴィヒは莫大な財産を築いた。彼はその金をヴィーゼンブルク城の大規模な改築・美化の費用に充てた。
また、文芸サークル「実りを結ぶ会」に名を連ね、「至福の人(Der Wohlgeartete)」という会員名を名乗った。
1672年まで、神聖ローマ皇帝(ハプスブルク君主国)軍に中将として仕え、胸甲騎兵連隊の指揮官を務めた。1675年、長男に城と所領を売り渡し、1686年にオーバーコッツァウの所領を購入した。晩年は、シュネーベルクで鉱山経営に成功した鍛冶屋上がりの富豪ファイト・ハンス・シュノール・フォン・カロルスフェルト(ドイツ語版)と友誼を結んだ。
1643年11月15日にレムゴーにおいて、ヴァルデック=ヴィルドゥンゲン伯クリスティアンの娘カタリーナ(1612年 - 1649年)と最初の結婚をし、間に2人の子女をもうけた。
1650年5月5日にバート・ホンブルクにおいて、ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ1世の娘アンナ・マルガレーテ(1629年 - 1686年)と2度目の結婚をした。彼女との間に15人の子女をもうけた。
1688年7月28日にグライツにおいて、ロイス=オーバーグライツ伯ハインリヒ1世の娘マグダレーネ・クリスティーネ(1652年 - 1697年)と3度目の結婚した。彼女との間に子供はない。