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この項目では、広域地名について説明しています。カザフスタンの都市については「テュルキスタン」をご覧ください。 |
トルキスタン(Turkestan / Turkistan)は、今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な名称。
「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、欧州諸語などで用いられている[1]。トルケスタン、トゥルケスタン[2]、トゥルケスターン[3][4] とも言う。[5]。
領域
トルキスタンは、西はカスピ海、東は中国、北はアラル海、イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、イラン国境に及ぶ地域 (ロシア・トゥルケスターンあるいは西トルキスタン、今日のトルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキスタン)、中華人民共和国の西北部の新疆ウイグル自治区 (シナ・トゥルケスターンあるいは東トゥルケスターン)、およびアフガニスタン北部の三地域に大別される[4]。
西トルケスタン、東トルケスタン、南トルケスタンとすることもある[6]。
歴史
「トルキスタン」とは、「テュルク人の」 (Turki)[3] という単語に「〜が存在する(ところ)」 「国」(-stān)[3][7] を意味する接尾辞が付属したペルシア語での他称に由来するものである。
前近代においてはその地域的な範囲は明確ではなく、イスラーム時代以降はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれた中央アジア南部のオアシス都市の地域の北方に広がるテュルク系遊牧勢力がいた領域を指す漠然としたものであった[1]。
一方、スィル川の中流にはヤサヴィー教団の始祖アフマド・ヤサヴィーの廟墓があることで有名なトルキスタン市(古名ヤス)がある。
西トルキスタンは変わらずマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていた。これはティムール朝末期のバーブルの時代でも同じであった。13世紀以降はモンゴル帝国、次いで後継の汗国に支配される。
19世紀後半、ロシア帝国がタシュケントにトルキスタン総督府を置き、その域は東部で天山山脈西部とパミール高原、西部でカスピ海東岸、南部でイラン・アフガニスタン国境にまで拡大した[1]。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった[1]。
ソ連邦ではトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国消滅後、パン・テュルク主義を想起させるトルキスタンのかわりに、中央アジア (Средняя Азия)と呼称されるようになり、ロシア領トルキスタンや西トルキスタンという名称は用いられなくなったが、東トルキスタンという名称は使用されている[4]。
テュルク人とその国家
上表のように面積はカザフスタンが桁違いに広い。人口はウズベキスタン、次いでカザフスタンが多い。一人あたりの所得はタジキスタンが目立って低い。
近代以降
その他
- 「トルキスタン」は、ロシア帝国時代には、西トルキスタンの南部であるウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタン一帯と、さらに狭い地域の名称として用いられたこともあった。
脚注
関連項目
外部リンク