スプレンディッド
就役から10日後の1942年8月18日、
シーアネス (英語版 ) を離れるスプレンディッド
基本情報 建造所
チャタム工廠 運用者
イギリス海軍 級名
S級潜水艦 モットー
Splendidly Audacious (申し分なく大胆に) 艦歴 起工
1941年3月7日 進水
1942年1月19日 就役
1942年8月8日 最期
1943年4月21日に自沈 要目 排水量
水上:865ロングトン (879 t)
水中:990ロングトン (1,010 t) 全長
217 ft (66.1 m) 最大幅
23 ft 9 in (7.2 m) 主機
出力
1,900 bhp (1,400 kW) (ディーゼル)
1,300 hp (970 kW) (電動機) 最大速力
水上:15 kn (28 km/h; 17 mph)
水中:10 kn (19 km/h; 12 mph) 航続距離
水上:6,000 nmi (11,000 km; 6,900 mi) at 10ノット (19 km/h; 12 mph)
水中:120 nmi (220 km; 140 mi) at 3ノット (5.6 km/h; 3.5 mph) 乗員
48 兵装
レーダー
タイプ291 (英語版 ) 早期警戒レーダー ソナー
タイプ129ARないしタイプ138 ASDIC テンプレートを表示
スプレンディッド (HMS Splendid )は第二次世界大戦 中にイギリス海軍 向けに建造された第3グループのS級潜水艦 。1941年3月7日に起工され、1942年1月19日に進水 した。ビスケー湾 からジブラルタル にかけての初期の哨戒任務のあと、スプレンディッドは一度は技術的問題で中断したが、もう一度では2隻のイタリア船を沈めた地中海での二度の哨戒任務を率いた。次の哨戒任務では、2つのイタリアの護送船団 を攻撃し、2度目の攻撃では1隻のイタリアの駆逐艦 を沈没させた。アルジェ を拠点として、シチリア の北側で作戦行動をとり、2隻の油槽船 と2隻の大型商船を含む6隻にイタリア船を沈没させた。1943年4月21日にイタリアのナポリ 沖を哨戒中にドイツの駆逐艦に探知されて爆雷 攻撃を受けて浮上せざるを得なくなり、自沈 して生き残った乗組員は戦争捕虜となった。スプレンディッドは1942年11月から1943年5月の期間で、最も多くのトン数を沈没させたイギリスの潜水艦だった。
設計と詳細
S級潜水艦の設計図
S級潜水艦 はイギリス本国から距離の近い、北海 や地中海 での哨戒任務を目的とした小型の潜水艦として設計された。第3グループは先行した第2グループよりも少し大型化され、重武装化されている。このタイプは全長61.1m、全幅7.2m、喫水4.5mである。排水量は水上で879トン、水中で1,010トンとなる[ 1] 。S級潜水艦には将校と下士官以下の兵あわせて48名が乗り組んだ。最大潜水深度は91mである[ 2] 。
浮上航行時にはそれぞれがプロペラシャフト を駆動する2基の950-制動馬力 (708 kW)ディーゼルエンジン が使用された。潜水中はそれぞれのプロペラシャフトは出力650-馬力 (485 kW)の電動機 で駆動された。最高速度は水上で15ノット (28 km/h; 17 mph)および水中で10ノット (19 km/h; 12 mph)に達した[ 3] 。第3グループの潜水艦の航続距離は、水上で速力10ノット (19 km/h; 12 mph)で6,000海里 (11,000 km; 6,900 mi)となり、水中では3ノット (5.6 km/h; 3.5 mph)で120 nmi (220 km; 140 mi)となった[ 2] 。
艦は6門の21インチ魚雷発射管 を艦首にそなえ、さらに艦尾に1門の発射管を備えてた。艦首発射管用に6発の再装填用の魚雷を含めて、合計で13発の魚雷を搭載していた。再装填用の魚雷の代わりに12発の機雷 を運ぶことが出きた。甲板上に3 in (76 mm) 砲1門を備えていた[ 4] 。スプレンディッド就役時に20mmエリコン 対空機関砲 が装備されていたのか、後から搭載されたのかは定かではない。S級潜水艦の第3グループは|129ARないしタイプ138 ASDIC システムと、タイプ291 (英語版 ) ないし291W早期警戒レーダー を備えていた[ 5] 。
建造と艦歴
スプレンディッドは1941年海軍計画の一部として1940年10月14日に発注された第3グループのS級潜水艦である。1941年3月7日にチャタム工廠 で起工され、1942年1月19日に進水 した[ 6] 。1942年8月8日、イアン・マッギーク (英語版 ) 大尉 の指揮の下にイギリス海軍で就役した[ 6] [ 7] 。スプレンディッドはイギリス海軍で3隻目の同名の艦である[ 8] 。
訓練期間の後で、スプレンディッドは1942年10月3日に、姉妹艦シビル (英語版 ) とともにホーリー・ロッホ を出航した。出航後10日、正午過ぎにスプレンディッドは煙を視認し、正体不明船の追跡を行い、4時間後に停船して乗り込んだところ、予定から遅れている連合国 のガイスカだった。同日遅くにUボート を発見したが、艦の特定もできず、攻撃も行わなかったスプレンディッドは10月16日に無事にジブラルタル に到着した[ 7] 。
ジブラルタル
スプレンディッドは10月31日にフランスのトゥーロン での哨戒任務でジブラルタルを離れたが、艦尾 の潜舵 に問題が発生し、任務を中断して港に戻らなければならなかった[ 7] 。
同艦は11月7日に再び港を離れトゥーロンでの哨戒任務についたが、翌週にはナポリ 沖での作戦に向けて配置換えされた。11月16日、スプレンディッドはドイツのUボートに向けて6発の魚雷を発射したが命中しなかった。同日遅く、同艦はゴルゴーナ島 の北西でイタリアの対潜スクーナー 「サン・パオロ」に浮上して砲撃を加えて沈没させた。スプレンディッドは11月20日に艦首側の残りの6発の魚雷をイタリア海軍潜水艦アラダム (イタリア語版 ) に向けて発射したが、全弾失中した。その翌日、同艦はイタリアのソルダティ級駆逐艦 ヴェリーテ を、駆逐艦が沈没したら浮上して、甲板砲で商船を砲撃する計画で再装填できない艦尾の魚雷1発で攻撃した[ 7] 。魚雷はヴェリーテに命中して損傷を与えたが、予期していなかった2隻の駆逐艦が現れたため、水上攻撃計画は失敗におわった。哨戒任務から帰投中の11月23日に、スプレンディッドはサルデーニャ島の北西でイタリア商船のファヴォリータと遭遇し、魚雷全弾を使い果たしていたため浮上して砲撃を加えて沈没させた。同艦は11月28日に哨戒任務を完了した[ 7] 。
12月8日、スプレンディッドはチュニジア の北で新し哨戒任務に就いた。12月14日、同艦はイタリアの護送船団 を4発の魚雷で攻撃して命中したと主張したが、数時間後に船団の2隻の商船の両方が英潜水艦サーヒブ (英語版 ) およびアンラッフルド (英語版 ) によって沈められ、主張は認められなかった。12月17日、スプレンディッドは別の護送船団を発見して魚雷六発をドイツの貨物船アンカラに向けて発射したが、1発は船首の10m前を通過し、1発が船尾の13m後を通過した。駆逐艦アヴィエーレ は運が悪いことに2発被雷し、10秒以内に沈没して220名が戦死した[ 7] 。英潜水艦サラセン (英語版 ) がこの攻撃を監視しており、沈没を裏付けた。スプレンディッドは最後の1発の魚雷をイタリア潜水艦ガラテア (イタリア語版 ) に向けて発射したが、命中しなかった。同艦は哨戒任務を1942年のクリスマスにアルジェ で完了した[ 7] 。
アルジェ
英潜水艦スプレンディッドの乗組員、1943年2月7日~10日、アルジェにて
スプレンディッドの次の哨戒任務は1943年1月5日に始まり、サルデーニャ島 沖で任務に就いた。哨戒開始から4日後、同艦にはサルデーニャ島の東海岸で2名の特殊作戦執行部員 を上陸させた。その後、ナポリ沖での哨戒任務に変更され、新し哨戒海域へと進路をとった。1月15日、スプレンディッドはイタリアの護送船団を発見し、950トンの補給品と戦車10両を運んでいた商船エンマに向けて魚雷5発を発射した。魚雷1発が商船に命中し、行き足を止めた。しかしながら、同船は沈没せず、スプレンディッドは日中に再度攻撃するために近くにとどまった。夜の間にイタリア船がエンマを曳航しようとしたが、荒れた海のためにうまく行かず、翌朝になってスプレンディッドが魚雷1発で攻撃し、同船を沈没させた。即座に爆雷 での反撃が続いたが、スプレンディッドは駆逐艦から逃れ、損傷は受けなかった。同艦はそのあと、1月19日1日でサルデーニャ島の東でイタリアの掃海艇 クレオパトラを砲撃によって沈め、砲撃で武装トロール船 ヴァイオレットに損傷を与え、イタリア商船コメルチオを雷撃して沈没させた。スプレンディッドは1月22日にアルジェに帰投した[ 7] 。
2月13日、同艦はシチリア北方の以前と同じ海域での哨戒任務に向けてアルジェを出航した。2月17日にイタリアの護送船団を発見し、弾薬300トン、補給物資150トン、車両50両を積載したイタリア商船ヴェントゥーノ・アプリーレを沈めた。一週間後に別のイタリア船団を攻撃し、残りの魚雷全部を使ったが一隻も沈めることができなかった。スプレンディッドは哨戒任務を終えて2月28日にアルジェに帰投した[ 7] 。
スプレンディッドは新たな哨戒任務を前回同様にシチリア北方で3月11日に開始した。任務開始から5日後に厳重に護衛されていたイタリアの油槽船 デヴォリを撃沈し、その4日後にはシチリアのチェファル 北東で油槽船ジョルジオを撃沈した。同艦は3月28日にマルタ で哨戒任務を完了した。スプレンディッドの指揮官、マッギーク大尉はこの任務の後で殊功勲章 を授与された[ 7] 。1942年11月の地中海での最初の哨戒任務から、1943年4月21日に沈没するまでの間に、スプレンディッドは1942年11月のフランス領北アフリカ 侵攻(コードネーム『トーチ作戦 』)から1943年5月にチュニジアで枢軸国が降伏するまでの間で最も撃沈総トン数の多い艦艇だった[ 9] 。
沈没
スプレンディッドは1943年4月18日にナポリ沖を哨戒するためにマルタを離れたが、これが最後の出航となった。3日後に潜望鏡 がドイツの駆逐艦ヘルメス に発見され、さらにソナー でも探知された。ヘルメスは補助掃海艇を除いて、地中海で最大のドイツ艦だった[ 7] 。駆逐艦は3回の爆雷攻撃を行い、合計41発を投下した。スプレンディッドは深度150mまで潜水して脱出を試みたが、最後の11発の爆雷によって耐圧殻 内部に水漏れが始まり、浮上せざるを得なくなった。駆逐艦からの砲撃を受けて18名の乗組員が戦死し、指揮官も負傷した。鹵獲されることを避けるために自沈 し、生き残った乗組員はとらえられてイタリアの捕虜収容所 に送られた[ 7] [ 10] 。艦長のイアン・マッギーク (英語版 ) は沈没の際に片目を失ったが、二度脱出を試み、成功した。スイスにたどり着いたマッギークは眼球から金属片を取り除き、フランスとスペインを経由してイギリスに帰国した[ 9] 。
戦果のまとめ
イギリス海軍での就役中に、スプレンディッドはイタリアの駆逐艦1隻および8隻の枢軸国船舶を撃沈し、撃沈総トン数は25,234GRT にのぼった[ 7] 。
脚注
参考文献
Akermann, Paul (2002). Encyclopaedia of British Submarines 1901–1955 (reprint of the 1989 ed.). Penzance, Cornwall: Periscope Publishing. ISBN 978-1-904381-05-1
Bagnasco, Erminio (1977). Submarines of World War Two . Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 978-0-87021-962-7
Chesneau, Roger, ed (1980). Conway's All the World's Fighting Ships 1922–1946 . Greenwich, UK: Conway Maritime Press. ISBN 978-0-85177-146-5
Heden, Karl Eric (2006). Sunken Ships, World War II: U.S. Naval Chronology Including Submarine Losses of the United States, England, Germany, Japan, Italy . History Reference Center: Branden Books. ISBN 0828321183
McCartney, Innes (2006). British Submarines 1939–1945 . New Vanguard. 129 . Oxford, England: Osprey. ISBN 978-1-84603-007-9
外部リンク
座標 : 北緯43度34分 東経9度37分 / 北緯43.567度 東経9.617度 / 43.567; 9.617