ティモシェンコ
ステパーン・プロコーフィエヴィチ・ティモシェンコ (烏 : Степан Прокопович Тимошенко ; 露 : Степан Прокофьевич Тимошенко ; 英 : Stephen P. Timoshenko 、1878年 12月22日 - 1972年 5月29日 )は、ロシア帝国 に生まれアメリカ合衆国 に帰化 した物理学者 。ティモシェンコ梁 (英語版 ) の理論をはじめとして材料力学 ・弾性 論・材料強度学 ・振動 論などに関する業績があり、「工業力学の父」と呼ばれる。また材料力学・弾性・強度などに関する教科書を執筆し、これらは多数の言語に訳されて現在でも広く用いられている。
生涯
ロシア帝国 のポルタヴァ県 (現在のウクライナ ・チェルニーヒウ州 )のシュペトフカ (ロシア語版 ) に生まれた。ハリコフ県 (現在のスムィ州 )のロムヌィ で1889年 から1896年 まで教育を受けたが、このときの学友に同じく物理学者として名を成すアブラム・ヨッフェ がいた。その後サンクトペテルブルク交通工科大学 (英語版 ) に入学して1901年 に卒業、翌1902年 から同大学の講師に採用された。1903年 から1906年 はサンクトペテルブルク工科大学 のヴィクトル・キルピチョーフ (英語版 ) の下で働いた。また1905年 はゲッティンゲン大学 のルートヴィヒ・プラントル の下で一年を過ごしている。
1907年 にティモシェンコはキエフ工科大学 (英語版 ) の教授となった。ここで彼は、弾性体の変形を有限要素法 によって解く、レイリー 法と呼ばれる手法の研究を行った。またこの時期に座屈 に関する研究もはじめたほか、有名な教科書『Strength of materials 』の初版を発行した。
1911年 、時の教育大臣レフ・カッソ (英語版 ) に対する抗議文に署名したため、ティモシェンコはキエフ工科大学の教授職を免職された。ロシア科学アカデミー は彼にジュコーフスキー 賞の授与と職の斡旋を行い、彼は Electrotechnical Instute とサンクトペテルブルク運輸工科大学 (英語版 ) に講師(のち教授)として採用された(1917年 まで)。ここでも弾性論や梁 の曲げの理論、座屈の研究を進めた。1918年 に彼はキエフ に戻り、ウラジミール・ベルナドスキー がウクライナ科学アカデミー を創設するのを手伝い、その最初の会員の一人となった。このアカデミー はソビエト連邦構成共和国 ではロシアのものに次いで古い。
ロシア革命 後に勃発したロシア内戦 の最中である1919年 にアントーン・デニーキン 率いる白軍 がキエフを占領すると、ウクライナ科学アカデミーは閉鎖され、ティモシェンコは職を失った。1920年 にボリシェヴィキ がキエフを奪った後に彼はウクライナを離れてユーゴスラビア へ移り、ザグレブ工科大学 に教授職を得た。
1922年 にティモシェンコはアメリカ合衆国 へ渡った。1923年 から1927年 までウェスティングハウス・エレクトリック で研究員として働いた後、ミシガン大学 の教授となった。ここで彼は学部生および大学院生用の最初の工業力学の教程を創設した。彼の執筆した教科書――最初のものはロシア語であったが、後半生ではほとんどが英語となった――は36の言語に翻訳・出版されている。また1927年にアメリカ国籍を取得している。
ティモシェンコは1936年 からスタンフォード大学 の教授となった。1944年に王立協会 外国人会員に選出。1964年 に、西ドイツ のヴッパータール へ移った。
1957年 にアメリカ機械工学会 はティモシェンコの名を冠したメダルを創設し、第1回受賞者に機械工学 分野における業績と執筆者・教育者としての貢献を称えてティモシェンコを選んだ。ティモシェンコ・メダル は毎年応用力学において業績を挙げた人物に授与されている。1958年エリオット・クレッソン・メダル 受賞。
ティモシェンコは教科書のほかに二冊の自叙伝 『Engineering Education in Russia 』と『As I Remember 』も執筆している。これらは1963年 にロシア語で出版され、1968年 に英語へ翻訳されたものが出版された。
1972年 5月29日 にティモシェンコはアメリカのカリフォルニア州 パロアルト で死去した。93歳であった。遺灰はパロアルトに埋葬されている。
外部リンク