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ジェフリー・チョーサー (英語 : Geoffrey Chaucer , 1343年 頃 - 1400年 10月25日 )は、イングランド の詩人 である。当時の教会用語であったラテン語 、当時イングランドの支配者であったノルマン人 貴族 の言葉であったフランス語 を使わず、世俗の言葉である中英語 を使って物語を執筆した最初の文人とも考えられている。このため、"The father of English poetry"(英詩の父)と呼ばれる。
来歴
家系は元々イプスウィッチ の豪商であり、祖父と父はロンドンの豊かなワイン 商人の家に生まれた。父ジョンを大金持ちの叔母が無理やりに連れ出し、自分の12歳の娘と結婚させて跡取りにしようとしたことがあり、そのため叔母は投獄の上に250ポンドの罰金を支払う事となったと言う。結局父はその娘と結婚し、叔母の所有するロンドンの大店舗を受け継ぐ事になる。チョーサーは当時のイングランドの裕福な上流中産階級の出自だったと言える。ジョンは1347年から1349年にかけてサウサンプトン港の王室酒類管理室代理としてエドワード3世 に仕えている[2] 。
チョーサーは1357年 のエリザベス・ドゥ・バロー (アルスター伯爵夫人)の台帳にその名が見られる事から父の縁故を使い上流社会への仲間入りをしたと思われる。廷臣、外交使節、官吏としてイングランド王エドワード3世 、リチャード2世 に仕えた。
エドワード3世に仕えていた時に彼の次男でアルスター伯爵夫人の夫であるクラレンス公 ライオネル・オブ・アントワープ の従者として百年戦争 に参加し、敵国フランス へ渡航するが、1359年 12月にランス にて捕虜 となり獄につながれる。翌年3月にエドワード3世が16ポンドの身代金を支払い、釈放される。その後プレティニーの和約の締結にも従者として出掛けていることが記録されている[2] 。
それ以降しばらくの間チョーサーの消息は記録から消える事となるが、恐らくは使節としてフランス、スペイン、フランドル に赴いていたものと思われる。またこの間サンティアゴ・デ・コンポステーラ の巡礼の旅を行っていた可能性もある。1366年 になるとチョーサーの名が再び現れ、エドワード3世妃フィリッパ・オブ・エノー の侍女であったフィリッパ・ドゥ・ロエ(Philippa de Roet)と結婚する。妻の妹キャサリン・スウィンフォード はエドワード3世の三男でランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント の子女の家庭教師であり、後にランカスター公の愛人、そして3番目の妻となる。後にランカスター公が彼のパトロン となる。
この頃のチョーサーはインナー・テンプル で法律を学んでいたと思われるが、資料にはそれを示すものは残ってはいない。1367年 6月20日 に彼は王の側近として、騎士 に次ぐ身分であるエスクワイア の身分となったと記録されている。彼は何回も海外へ出かけていたが、その中の何回かは王族の側近として赴いたものであった。
チョーサーは外交使節としてイタリア を訪問、この時イタリアの人文主義者 で詩人のペトラルカ と親交を結ぶ事になるが、この2人を結びつける事例として1368年 に主人であるクラレンス公がガレアッツォ2世・ヴィスコンティ の娘ヴィオランテと再婚した事が指摘されている。ミラノ で行われたこの婚儀にペトラルカは出席しており、チョーサーも出席していた可能性がある。そしてペトラルカの影響からチョーサーは彼が用いたソネット 形式を英文学 に導入する。多彩な経歴を持ち、学識豊かで"The father of English poetry"(英詩の父)と呼ばれる大詩人となった。「アストロラーベ に関する論文」は同天体観測機器の初の英語版解説書である。
また1370年 には軍事出征の一環としてジェノヴァ 、1373年 にはジェノヴァおよびフィレンツェ に赴いている。1374年には年俸10ポンドでロンドン税関 に着任し、1385年または1386年までの間、チョーサーはここで羊毛 ・皮革 に関する徴税 の仕事に携わった。
また1377年 にもチョーサーは旅に出かけているが、この内容は分かっていない。後世の書類から、百年戦争 の終結を図るためにジャン・フロワサール と共にリチャード2世とフランス王女との婚儀を進める密命を帯びていたと思われる。後世の我々から見た場合、現実には婚姻はされていないのは分かっているので、もしそうであったのなら、これは不成功に終わったことになる。
1378年 にチョーサーはリチャード2世の密命を帯びてミラノに渡航。ヴィスコンティ家 と傭兵隊長ジョン・ホークウッド と接触、傭兵を雇い入れるために交渉する。この時チョーサーと出会ったホークウッドの出で立ちがカンタベリー物語 の「騎士の物語」への影響が見られる。ホークウッドの装いは騎士というより14世紀 の傭兵 そのものであった。
1394年、リチャード2世から20ポンドの年金を授けられた。1399年に即位したヘンリー4世 はチョーサーへの年金を更新し、1400年6月5日には未支払の年金の一部が支払われたとの記録が残っている。チョーサーは1400年10月25日に死去したが、この日付の証拠は死後100年以上経過してから建てられた墓石だけである。
なお、彼を称えて、小惑星 (2984)チョーサー が、また月 のクレーター にもチョーサー (英語版 ) が彼の名をとり命名されている。
子女
エリザベス(生没年不詳)
トマス (英語版 ) (1367年頃 - 1434年) - 庶民院 議長
著作
主著『カンタベリー物語 』は、ボッカッチョ 『デカメロン 』の影響を受けた作品で、カンタベリー大聖堂 へ向かう巡礼 者たちが語るという体裁の説話 集。未完ながら中英語 を代表する英文学作品である[8] 。
他に恋愛物語詩『トロイルスとクリセイデ』[9] 、「イーリアス 」を翻案した『トロイルス』[10] 、追悼詩『公爵夫人の書』、『薔薇物語 』、『哲学の慰め 』英訳がある。
主な作品
Translation of Roman de la Rose , possibly extant as The Romaunt of the Rose
The Book of the Duchess
The House of Fame
Anelida and Arcite
Parlement of Foules
Translation of Boethius' Consolation of Philosophy as Boece
Troilus and Criseyde
The Legend of Good Women
The Canterbury Tales
A Treatise on the Astrolabe
短い詩
An ABC
Chaucers Wordes unto Adam, His Owne Scriveyn (disputed)
The Complaint unto Pity
The Complaint of Chaucer to his Purse
The Complaint of Mars
The Complaint of Venus
A Complaint to His Lady
The Former Age
Fortune
Gentilesse
Lak of Stedfastnesse
Lenvoy de Chaucer a Scogan
Lenvoy de Chaucer a Bukton
Proverbs
Balade to Rosemounde
Truth
Womanly Noblesse
チョーサーの作品か疑わしい作品
Against Women Unconstant
A Balade of Complaint
Complaynt D'Amours
Merciles Beaute
The Equatorie of the Planets
失われたと推定されている作品
Origenes upon the Maudeleyne
The Book of the Leoun
派生作品
宗教観
チョーサーは教会にいる多くの人々が腐敗しているとみたが、キリスト教徒を尊敬しており、自身もキリスト教徒であった[11] 。『カンタベリー物語』でも「この小作品を聞くか読む者はそこから何か喜ぶべきものを見つけましたら、イエス・キリストを感謝してほしい」という趣旨の文章がある[12] 。
チョーサーを題材にした映画
アメリカ映画『ROCK YOU! (ロック・ユー!、原題: A Knight's Tale )』(2001年 製作)は、チョーサーが何をしていたか不明とされている1370年頃のヨーロッパを舞台とした物語で、チョーサーはジュースティング(馬上槍試合 )に挑む主人公の仲間となる、重要なキャラクターとして登場する。ポール・ベタニー がチョーサーを演じた。
脚注
参考文献
外部リンク
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。