ソールズベリー侯(英語: Marquess of Salisbury)は、グレートブリテン貴族の侯爵位の一つ。
第7代ソールズベリー伯爵(第5期)ジェイムズ・セシルが1789年に叙せられたのに始まる。ソールズベリー侯として最も有名なのは、19世紀末から20世紀初にかけて3度イギリスの首相を務めた3代ソールズベリー侯ロバート・ガスコイン=セシルである。2019年現在の当主は7代ソールズベリー侯ロバート・ガスコイン=セシルである。
イングランド女王エリザベス1世の宰相初代バーリー男爵ウィリアム・セシルには長男トマス(1542–1623)と次男ロバート(1565–1612)という二人の息子があったが、父の政治的な立場は次男ロバートが引き継ぎ、ロバートはエリザベス朝末からステュアート朝初期にかけて宰相を務めた[1]。
ステュアート朝初代国王ジェームズ1世からも重用されたロバートは、1603年5月13日にイングランド貴族爵位ラトランド州におけるエッセンドンのエッセンドンのセシル男爵(Baron Cecil of Essendon, of Essendon in the County of Rutland)、ついで1604年8月20日にはクランボーン子爵(Viscount Cranborne)、1605年5月4日にはソールズベリー伯爵(Earl of Salisbury)に叙された[2][3]。なおロバートがソールズベリー伯爵位を与えられた同日に兄トマスもエクセター伯爵(Earl of Exeter)に叙せられている[4]。
初代伯ロバートは、ジェームズ1世との邸宅交換でハートフォードシャーにあるハットフィールド・ハウスを手に入れ、以来現在に至るまでここがソールズベリー伯爵・侯爵セシル家の本拠となっている[5]。
初代伯の息子の2代伯ウィリアム・セシル(1591-1668)は、清教徒革命後のイングランド共和国で国務会議のメンバーになるなど[6]、共和国政界の中枢で活躍する貴族としては珍しい人物となった[7]。
7代伯ジェイムズ・セシル(1748-1823)の代の1789年8月25日にグレートブリテン貴族爵位ソールズベリー侯爵に叙せられた。これがソールズベリー侯爵家の創始となった。初代侯はトーリー党の政治家として活躍し、1816年から1823年までリヴァプール伯爵内閣で郵政長官(英語版)を務めた[8][9]。
2代ソールズベリー侯ジェイムズ・セシル(1791-1868)もトーリー党・保守党の政治家として活躍し、ダービー伯爵内閣で王璽尚書(在職1852年)や枢密院議長(在職1858年-1859年)を務めた。また彼の代の1821年3月にガスコイン家との結婚を機に勅許を得て「ガスコイン=セシル」と改姓している[9][10]。
3代ソールズベリー侯ロバート・ガスコイン=セシル(1830-1903)は、歴代ソールズベリー侯爵でもっとも著名な人物である。保守党の政治家として栄進し、第二次ディズレーリ内閣のインド大臣や外務大臣を経て、ヴィクトリア朝後期に三度に渡って首相(在職1885-1886、1886-1892,1895-1902)を務めた。彼は内政面では選挙法改正に反対し続けた保守主義者として、外交面ではボーア戦争をはじめとする帝国主義外交を行ったことで知られる。日英同盟を締結した首相としても知られる[11]。
彼の登場以降ソールズベリー侯爵家はイギリス政界の中心的存在となり、長男の4代侯ジェイムズ・ガスコイン=セシルも保守党の政治家として閣僚職を歴任した。また三男の初代チェルウッドのセシル子爵ロバート・ガスコイン=セシル(1864-1958)も保守党の政治家として活躍し、国際連合創設への貢献でノーベル平和賞を受賞している。4代侯の息子である5代侯ロバート・ガスコイン=セシル(1893-1972)は保守党貴族院院内総務としてアトリー労働党政権と交渉して貴族院の停止的拒否権を制限する「ソールズベリー慣行」を確立したことで知られる。
2019年現在の当主は7代ソールズベリー侯ロバート・ガスコイン=セシル(1946-)である。彼も保守党の政治家でメージャー内閣で王璽尚書と貴族院院内総務を務めた[12][9]。
本邸はハートフォードシャーにあるハットフィールド・ハウスである[9]。
分流にロックリー男爵家が存在する。同家は2代ソールズベリー侯の三男ユースタス(1834-1921)の子イヴリン(1865-1941)が1934年にロックリー男爵に叙せられたのに始まっている[13]。
現当主ロバート・ガスコイン=セシルは以下の爵位を保有している[12][9]。