シュタイナウ・アン・デア・シュトラーセ (ドイツ語 : Steinau an der Straße , ドイツ語発音: [ˈʃta͜ina͜u] [2] ) は、ドイツ連邦共和国 ヘッセン州 マイン=キンツィヒ郡 の市である。この街はグリム兄弟 の街である。市の名前の "an der Straße"(「街道沿いの」)は、フランクフルト・アム・マイン からライプツィヒ に至る通商路「ヴィア・レギア」に由来し、同名の町や集落との区別のために添えられている。
地理
位置
シュタイナウは、南のシュペッサルト山地 と北のフォーゲルスベルク山地 との間のキンツィヒ川 の谷に位置している。これに応じて、シュタイナウ周辺の南部は森林、北は農地が主である。
地質学
シュタイナウの中心街の北に、ヘッセン州で2つの鍾乳洞 の1つである「トイフェルスヘーレ」がある。この約 250万年前の洞窟は1905年から開発されている。第二次世界大戦 中、この洞窟はアメリカ軍によって一部破壊された。ムシェルカルク (貝殻石灰岩統)前期(約2億4000万年前)の大きなカルスト の空洞は重要な地質学上の自然文化財である。
隣接する市町村
シュタイナウは、北はフライエンシュタイナウ (フォーゲルスベルク郡 )、ノイホーフおよびフリーデン(ともにフルダ郡 )、東はシュリュヒテルン 、南は市町村に属さないグーツベツィルク・シュペッサルト (マーリョス地区はこれに囲まれている)、西はバート・ゾーデン=ザルミュンスター およびビルシュタイン (以上、いずれもマイン=キンツィヒ郡 )と境を接している。
市の構成
シュタイナウは、ベリングス (Bellings)、ヒンターシュタイナウ (Hintersteinau)、クレスベルク (Klesberg)、マールボルン (Marborn)、マーリョス (Marjoß)、ノイシュタル (Neustall)、ザルロート (Sarrod)、ラーベンシュタイン (Rabenstein)、レプスドルフ (Rebsdorf)、ザイデンロート (Seidenroth)、シュタイナウ (Steinau)、エルツェル (Uerzell)、ウルムバッハ (Ulmbach) の各市区からなる。
歴史
シュタイナウに遺る交易路「ヴィア・レギア」の跡
シュタイナウは、元々リーネック伯領であった。この集落は、フランクフルト・アム・マイン とライプツィヒ とを結ぶ通商路「ヴィア・レギア」沿いの重要な宿場であった。13世紀 後半、シュペッサルト西部の覇権を巡って起こったマインツ大司教 とリーネック伯との間の紛争は、1271年 にマインツ大司教ヴェルナー・フォン・エップシュタインの勝利で終結した。和平協定の一部に、シュタイナウ・アン・デア・シュトラーセ市を含む豊富な嫁資を持つエリーザベト・フォン・リーネックがウルリヒ1世フォン・ハーナウに嫁ぐことが定められた[3] 。こうしてシュタイナウは、ハーナウ家、後のハーナウ伯家のものとなった。ハーナウ以前にハーナウ家の宮廷所在地であったヴィンデッケンに次ぐ、領内第2の都市として、ウルリヒ1世はシュタイナウに1290年 7月4日に都市権を授け、ゲルンハウゼン の都市権を安堵した。
ハーナウ家は初めての防衛施設シュタイナウ城を建設し、ヴィア・レギア往来の安全性確保に活用した。後世、この城館はしばしばハーナウ伯妃の隠居所として用いられた。シュタイナウは、徐々にハーナウの「オーバーグラーフシャフト」、後のハーナウ=ミュンツェンベルク伯領の中心へと発展していった。18世紀にはグリム兄弟 の父親であるフィリップ・ヴィルヘルム・グリムも官僚で、アムト・シュタイナウの行政官としてこの地に勤務し、居住した。
最後のハーナウ伯ヨハン・ラインハルト3世が1736年 に亡くなった後、シュタイナウはハーナウ伯領全域と共にヘッセン=カッセル方伯 領(19世紀初めからはヘッセン選帝侯 領)となった。1821年 の行政改革により、この街は新たに創設されたシュリュヒテルン郡に編入された。1866年 、シュタイナウを含む選帝侯領は、普墺戦争 の結果プロイセン に併合され、第二次世界大戦 後はヘッセン州 の一部となり、1974年 の地域再編によってマイン=キンツィヒ郡 の一部となった。
行政
メルヘンの泉。背景右手が市庁舎
議会
このシュタイナウ・アン・デア・シュトラーセの市議会は、33議席からなる[4] 。
市長
クリスティアン・ツィンマーマン(無所属)は、2020年11月15日の市長選挙決選投票で 56.82 % の票を獲得してシュタイナウ・アン・デア・シュトラーセの市長に選出された[5] 。
姉妹都市
各市区の姉妹都市協定は、以下の通り。
紋章
図柄: 青地で緑の基部に白い服を着て、金の髪、金の冠を被り、銀の光背を背負った女性が立っている。冠の下左側(向かって右)に緩やかに波打ち、腰まで届く幅の狭い赤い布が見える。伸ばして広げた右手に6本スポークの金の輪を載せている。左手は銀の剣を握っているが、その切っ先は地面に接している。女性の右(向かって左)には金地に3本の赤いシェブロン が描かれた小さな盾が置かれている。左は、5つの突起を持つ星5つが盾の波状に配置されている。
解説: この紋章は、町の守護聖人 である聖カタリナ を描いている。この聖女は、車大工、粉挽き、若妻、少女、学生、司書、教師、陶工の守護聖人である。シュタイナウは中世以来、重要な製陶の街であった。聖女は、輪と剣を握っているが、これは彼女の殉教の凶器であった。聖カタリナの図像の多くでは、輪は壊れているのだが、シュタイナウの紋章では壊れていない。盾内の小盾はハーナウ伯の紋章に由来する。ハーナウ伯は、シュタイナウ地方を長年にわたって支配しており、時にはオーバーグラーフシャフトの所在地になったり、短期間ではあるがハーハウ伯の宮廷所在地になったりした。5つの星の意味は明らかでない。
文化と見所
グリム兄弟の家とかえるの王さま の像
シュタイナウは、ドイツ・メルヘン街道 およびドイツ木組みの家街道 沿いに位置している。
演劇
シュタイナウ博物館
博物館
グリム兄弟 の家シュタイナウ。旧役場のグリム兄弟記念館。ヤーコプ・グリム とヴィルヘルム・グリム は、その幼少期、1791年 - 1796年にここに住んでいた。
シュタイナウ博物館(街道沿いの博物館)
城館博物館
歴史的な日用品の私立博物館
シュタイナウ城
建築
シュタイナウ城
旧役所(1562年建造)。ハーナウ=ミュンツェンベルク伯あるいはハーナウ伯領のアムト・シュリュヒテルンおよびアムト・シュタイナウの地域行政のための役場であった。現在はグリム兄弟の家シュタイナウ。
アムツホーフショイネ(1562年頃建造)。かつての役所の納屋。現在はシュタイナウ博物館。
カタリーネン教会。13世紀に建設された、おそらくシュタイナウで最も古い建造物である。修復の際、古い建築の基礎壁が発見されたが、埋め戻された。
ラインハルツ教会。クリスティアン・ルートヴィヒ・ヘルマン(1725年 - 1731年)によるバロック様式 のプロテスタント 教会。
フォン・ヴェルスベルク礼拝堂(墓地礼拝堂、1616年建造)。
数多くの路地や保存状態の良い木組み建築が多く保存されている歴史的な中核地区
監視塔を持つ市壁と、4つの監視所を有する旧国境防衛施設(現在は遊歩道となっている): 市の北にあるマールボルン監視所およびオールヴァルト監視所、南にあるベルリング監視所とザイデンレート監視所(再建された建物)。
余暇・スポーツ施設
屋外プール。子供用水浴びプールと飛び込みプール、2つのウォータースライダーがある。
テニス場
2カ所のサッカー場
3カ所の乗馬場
釣り場
貸しペダルボートがある堰止め湖
シュタイナウ・アン・デア・シュトラーセ体験パーク
クレッターヴァルト・シュタイナウ
トイフェルスヘーレの上にあるベルクヴァイハー(山の池)への 90段の道。この池は、スイレン 、ヨシ 、トンボ 、カエル が生育する自然のままの小池である。
ヘッセン自転車道 R3号線(ライン=マイン=キンツィヒ自転車道)がこの街を通っている。この自転車道は、「Spätlesereiter の轍」というモットーの下、ライン川 、マイン川 、キンツィヒ川 沿いにフルダを通り、レーン山地 のタン まで伸びている。
年中行事
ヨッケス=マルクト
カタリーネンマルクト
メルヘンの日曜日
シュタイナウの人形劇の日[6]
クリスマスマーケット
経済と社会資本
シュタイナウの経済は、ゴム および合成樹脂 、化学 、電子工学 、木工業 、機械工学 といった分野で構成されている。観光業 も無視できない重要性を占めており、毎年のべ約 1万泊の宿泊客がある。ウルムバッハ市区は州指定の保養地である。
連邦アウトバーン A66号線や鉄道フランクフルト - フルダ線により、シュタイナウは自動車や鉄道の交通の便が良い立地にある。この街は観光のみならず、企業にとってもライン=マイン地区やフルダへの理想的な門口となっている。
教育
ブリューダー・グリム・シューレ
連邦立・州立機関
人物
ゆかりの人物
引用
外部リンク