ゲーリー・ホール・ジュニア

オリンピック
競泳
1996 400mリレー
1996 400mメドレーリレー
2000 50m自由形
2000 400mメドレーリレー
2004 50m自由形
1996 50m自由形
1996 100m自由形
2000 400mリレー
2000 100m自由形
2004 400mリレー
世界選手権
1994 Rome 4×100 m freestyle
1994 Rome 4×100 m medley
1998 Perth 4×100 m freestyle
1994 Rome 50 m freestyle
1994 Rome 100 m freestyle
1998 Perth 4×100 m medley
パンパシフィック選手権
1995 Atlanta 50 m freestyle
1995 Atlanta 100 m freestyle
1995 Atlanta 4×100 m freestyle
1995 Atlanta 4×100 m medley
1999 Sydney 50 m freestyle
パンアメリカン競技大会
1995 Mar del Plata 4×100 m freestyle
2007 Rio de Janeiro 4×100 m freestyle
2003 Santo Domingo 50 m freestyle

ゲーリー・ホール・ジュニア(Gary Wayne Hall Jr、1974年9月26日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身の競泳選手。1996年アトランタオリンピックから3大会連続してオリンピックに出場、5つの金メダル、3つの銀メダル、2つの銅メダルを獲得した選手である。

ゲーリー・ホール・ジュニアは、父親であるゲーリー・ホール・シニア1968年メキシコシティーオリンピックから3大会連続してオリンピックに出場した選手であり、さらに母方のおじも1976年モントリオールオリンピックに出場、その父親も1940年代のアメリカの国内チャンピオンになったことがあるという、水泳一家に生まれ育った。

経歴

アトランタオリンピック(1996年)

21歳で迎えたアトランタオリンピックでは、まだ6年しか競技歴がなかったにもかかわらず、優勝候補であるロシアアレクサンドル・ポポフのライバルとして見られていた。

ホールと、アメリカチームはリレー種目で他を圧倒し、400mリレー、400mメドレーリレーとも世界新記録(当時)で金メダルを獲得。しかし、50m自由形、100m自由形の個人種目では、両種目ともポポフの前に銀メダルに終わった。

1999年に、ホールは若年性糖尿病と診断される。しばらくの間競技から離れたものの、2000年シドニーオリンピックの選考会に間に合うよう戻ってきた。この大会で、50m自由形で優勝、100m自由形で2位となりオリンピック出場を決める。特に50m自由形の優勝タイム21秒76は、10年前にトム・ジェイガー(Tom Jager)によって作られたアメリカ記録を更新するというおまけつきであった。

シドニーオリンピック (2000年)

この勢いのまま、オリンピックでも、50m自由形で、同僚であるアンソニー・アービン(Anthony Ervin)と並んで金メダルを獲得する。リレー種目では、400mメドレーリレーで金メダルを獲得するも、アメリカが一度も他国に金メダルを譲ったことがない400mリレーでは銀メダルに終わる。このレースの前に、ホールはオーストラリアに対し、「ギターみたいにぶっ潰してやる」と挑発していた。ホールは、アンカーを務め、オーストラリアのアンカーのイアン・ソープ(Ian Thorpe)と対決した。ホールはソープに体半分のリードを保ったまま、最後のターン。リードを保っていたが、ここから、ソープが猛然と追い上げ、最後に逆転を許し、0秒17差で銀メダルに終わる。

アテネオリンピック (2004年)

ホールは、2004年アテネオリンピックに3大会連続出場を果たし、50m自由形ではシドニー大会に続く2連続の金メダルを獲得。400mリレーでは、決勝には出場しなかったものの、予選に出場したことで銅メダルを獲得した。

北京オリンピック選考会(2008年)

選考会で敗れ4大会連続の出場はならなかった。あと4年間、練習のために妻や子どもたちと離れるのは難しいと話し現役引退を表明した。

外部リンク

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