ケズウィック家創始者のウィリアム。ジャーデン・マセソン商会日本支店の初代代表も務めた
ケズウィック家 (the Keswick family: 発音するときはwを発音せず、"Kezzick"(ケジック)となる)はスコットランド に起源を持つビジネス界の名家で、1855年 から東アジアに進出し、特に香港 に拠点を置く巨大コングロマリット であるジャーディン・マセソン・ホールディングス に関わる一族として有名である。
ケズウィック家はジャーディン・マセソンの大班 (タイパン:経営に携わるもの)として香港上海銀行 、インド・チャイナ・スチーム・ナビゲーション・カンパニー (英語版 ) 、カントン・インシュランス・オフィス(現:HSBCインシュランス (英語版 ) )、香港・九龍・ワーフ・アンド・ゴーダウン・カンパニー(現:ザ・ワーフ (英語版 ) )、スターフェリー 、香港トラム 、香港ランド・インベストメント・アンド・エージェンシー、香港・アンド・ワンポア・ドック (英語版 ) などの所有、経営に携わってきた。
第1世代
ウィリアム・ケズウィック (1834–1912)
ウィリアム・ケズウィック (英語版 ) はケズウィック家の創始者。スコットランド ローランド地方 生まれ。ジャーディン・マセソン商会 を創設したウィリアム・ジャーディン の姉の娘の子。1855年 に香港 に到着し、ジャーディン商会上海支店(中国本店) で働く。
1859年 (安政6年)、日米修好通商条約 締結後に開港した横浜にジャーディン・マセソン商会 横浜支店(英一番館 )を設立。1863年 (文久3年)、井上聞多 、遠藤謹助 、山尾庸三 、野村弥吉 、伊藤博文 の長州五傑 (長州ファイブ)のイギリス留学を支援した。
1867年には、香港の4大英国企業の一つであり世界最大の海上保険 会社となる広東組合保険協会 (英語版 ) の取締役になる[注釈 1] 。
1886年 に本国に帰国。ウィリアム・ジャーディン とジェームス・マセソン の親戚がロンドンに設立したマセソン商会の専務になる。
1868年 から1887年まで、香港政庁 の非官守(官職)議員になり、香港の政策に大きな影響力を及ぼした。
1888年 には科学者のハーバート・W・C・トゥウェッドルと共にペルーのアシエンダ・ラ・ブレア・イ・パリニャス油田を買い取り、ロンドン・アンド・パシフィック・ペトロリューム・カンパニーを設立した[2] 。
ジェームズ・ジョンストーン・ケズウィック (1845–1914)
ジェームズ・ジョンストーン・ケズウィック はウィリアム・ケズウィックの弟。東アジアに1870年に到着し、その後香港を拠点にし26年間を過ごした。人々は彼の人間性を讃え"James the bloody polite"(すごく礼儀正しいジェームズの意)と呼んだ。1890年から1900年にかけて香港立法会 、香港総商会 (英語版 ) のメンバーとなった。1890年代から世紀を越えるまでジャーディン・マセソンの大班となり、1889年にはポール・チャーターと不動産開発会社である香港ランド (英語版 ) を設立した。香港ランドは現在でもジャーディン・マセソンのグループ企業である。
J・J・J・ケズウィック (1842–1904)
J・J・J・ケズウィック はウィリアム・ケズウィックのもう一人の弟。カルカッタを拠点とし、彼のパートナーであるジョン・スキナー・スチュワートと共にジャーディン・スキナー(後のジャーディン・ヘンダーソン)の経営に携わった。
第2世代
ヘンリー・ケズウィック
ヘンリー・ケズウィック (1870–1928)
ヘンリー・ケズウィック はウィリアム・ケズウィックの息子で叔父であるジェームズ・ジョンストーン・ケズウィックが香港を去る前の1895年に香港に着いた。香港に来る前はジャーディンのニューヨークオフィスで2年間働いていた。
第3世代
第3世代では拠点を香港と上海に拡大し、トニーとジョンは香港、上海、イギリスの政治的な要職も歴任し、グループを拡大していった。
ウィリアム・ジョンストーン "トニー" ケズウィック (1903–1990)
ウィリアム・ジョンストーン "トニー" ケズウィック は1926年に東アジアに到着した。1935年から1941年までジャーディン商会上海支店(中国本店) で働き、戦時中は上海市議会の長を務めた。1941年に日本軍によって腕を撃たれ、更に企業の資産は全て没収された。
戦後、ロンドンのマセソン商会のマネージング・ディレクター、ハドソン湾会社 の長、イングランド銀行のディレクター、アライアンス・アシュアランスの副会長、ブリティッシュ・ペトロリアム のディレクターを務めた。
彫刻家であるヘンリー・ムーア とも親交があり、ケズウィック家の管理する土地に幾つか彼の彫刻が置かれている。[3]
ジョン "ザ・ヤンガー" ケズウィック (1906–1982)
1929年 、上海 に到着。ジャーディン・マセソン商会上海支店(中国本店) で働く。1930年代、同盟通信社 (共同通信社の前身)上海支局長時代の松本重治 に出会っている。松本は、ジョン・ケズウィックの人脈を頼りに英国紳士が集う「上海クラブ」に入会している。後に、松本の招きで樺山愛輔 (白洲次郎 の妻・正子 の父)もゲストとして招かれている。
太平洋戦争 が始まり、米国が原爆をも視野に入れた満州 爆撃を計画したとき、経済的損失を恐れたジョン・ケズウィックは英国で爆撃中止のためのロビー活動を展開。当時のクレメント・アトリー 首相(労働党)をワシントン に飛ばせ、爆撃中止を実現させた。[4] 戦況が悪化していた時期は、セイロン(スリランカ )に逃れた。
1949年 、中華人民共和国 の建国後は拠点を香港に移す。中国大陸の支店網はすべて1954年 に接収・閉鎖され、2000万ドルの損失を被る。
1952年 、香港政庁 の非官守(官職)議員に就任。1953年 に会長職を辞任した後、1956年 にマセソン社に加わる。また、1963年 に「英中貿易協会」(SBTC)会長に就任(~1973年 )し、共産主義国 となった中国との貿易再開に奔走する。1972年 に英中の外交関係が完全に正常化し、1973年 に周恩来 首相と北京で会談。英国産業技術展も開催され、周恩来も視察に訪れる。1970年 から1972年 まで、ジャーディン・マセソンで代表権のない会長職を務めた。これらの功績により1973年に聖マイケル・聖ジョージ勲章 を授かり、サーの称号を得た。
戦時中、英国政府の諜報業務を担っていたという説もある[5] 。日本と戦う中国の支援が目的で、英国特殊作戦執行部 (SOE)の中国での活動を指揮して、巨大なスパイ網を展開していたという。
一人娘のマーガレット(1941–1995)はアメリカ人建築家チャールズ・ジェンクス と結婚し、中国庭園やジャーディン・マセソン商会の歴史などを執筆した[6] 。
第4世代
ヘンリー・ケズウィック
ヘンリー・ケズウィック (英語版 ) はトニー・ケズウィックの息子として、1938年 に生まれる。1961年 にジャーディン・マセソン に入社し、香港 、シンガポール 、マレーシア のマネージャーを歴任する。1963年 、香港のセントラル に「マンダリン香港」(現在のマンダリン・オリエンタル香港 )」をオープン。マンダリン・オリエンタルホテルグループ の始まりとなる。
1967年 に取締役、1970年 に専務取締役、1972年 から1975年 まで会長(第6代目当主)に就任。1988年 、持株会社制度を導入し「ジャーディン・マセソン・ホールディングス」をロンドンに設立。ロンドン証券取引所 とシンガポール証券取引所 で上場する。
チッペンデール・ケズウィック
チッペンデール・ケズウィック (英語版 ) はウィリアム・ジョンストーン "トニー" ケズウィックの次男として1940年に生まれた。彼はジャーディン・マセソンに関わることはなく、ロンドンの商業銀行であるハンブロス (英語版 ) で働いていた。
2013年6月、アーセナル 会長に就任。
サイモン・ケズウィック
サイモン・ケズウィック (英語版 ) (1942年生)は1962年にジャーディンに加わり、1972年からDirectorとして働いていたが1977年にジャーディンを去りマセソン商会に加わった。1983年にジャーディンのシニア・マネージング・ディレクターとしてもどり、その後、父親がデイビッド・ニュービギニングを会長職から退いたあと、大班 (会長職)に就任した。サイモンはジャーディンの再構成を図り、より国際的な企業となった。
第5世代
第5世代になった2013年現在でも一族はジャーディン・マセソンをかなり支配しており、重要なポストを占めている[7] 。
パーシー・ウェザオール
パーシー・ウェザオール (英語版 ) (1957年生、Percy WeatherallもしくはEdward Percy Keswick Weatherall)はヘンリー・ケズウィック(1870–1928)の曾孫にあたる。ジャーディン・マセソンでは1999年 から取締役を務め、2000年 から2006年 3月31日 まで最高業務責任者(Managing Directer)を務めていた。現在は香港ランド (英語版 ) のCEO を務めている。
ジャーディン・マセソンには1976年 に入社し、香港 、アメリカ 、イギリス 、サウジアラビア 、韓国 、フィリピン で重要なポストを歴任し、大班 (会長職)となった。
ベン・ケズウィック
ベン・ケズウィックはサイモンの息子で1972年に生まれた。1998年に入社し、INSEAD でMBAを取得する以前にデイリーファーム 、香港ランドの要職を歴任した。2003年にはジャーディン・パシフィックの財務最高責任者となり、2005年から2007年まで最高経営責任者を務めた。2007年4月に経営に参加し、ジャーディン・サイクル・アンド・キャリッジ のマネージング・ディレクターとなり、2012年4月にはジャーディン・マセソン・ホールディングスの大班(会長職)となった。
アダム・ケズウィック
アダム・ケズウィック はチッペンデールの息子で1973年に生まれた。ジャーディン・パシフィックとジャーディン・モーターズの最高経営責任者。
家系図
アンドリュー・ ジャーディン
デイビッド・ ジャーディン レイチェル・ ジョンストーン ジーン・ ジャーディン デイビッド・ ジョンストーン 不明 ウィリアム・ ジャーディン 1784–1843 不明
アンドリュー・ ジャーディン (1812–1881) デイビッド・ ジャーディン ナンシー・ ジャーディン ロバート・ パターソン ジョセフ・ ジャーディン (1822–1861) ロバート・ジャーディン (1825–1905)マーガレット・ ハミルトン アンドリュー・ ジョンストーン マーガレット・ ジョンストーン トーマス・ ケズウィック
ジェームズ・ ジャーディン-パターソン (1845–1893) ロバート・ ウィリアム・ ブキャナン- ジャーディン (1868–1927)[注釈 2] ウィリアム・ ケズウィック (1834–1912)J・J・J・ ケズウィック (1842–1904)[注釈 3] ジェームズ・ ジョンストーン・ ケズウィック (1845–1914)
ロバート・ ジャーディン-パターソン (1878–1942) アイダ・ ウィニフレッド・ ジョンストン (1880–1954) ジョン・ ウィリアム・ ブキャナン- ジャーディン (1900–1969) ヘンリー・ ケズウィック (1870–1928) アイダ・ ウィニフレッド・ ジョンストン (1880–1954) マーガレット・ アリス・ ケズウィック ヘレン・ ケズウィック
デイビッド・ ジャーディン-パターソン (b. 1912) ロバート・ ジャーディン- パターソン (1916–1995) オーサー・ ジャーディン- パターソン (b. 1918) ジョン・ ジャーディン パターソン (1920–2000)プリシラ・ ミグノン アンドリュー・ ロバート・ ジョン・ ブキャナン- ジャーディン (1923–2010) ウィリアム・ ジョンストーン "トニー" ケズウィック (1903–1990) メアリー・ エセルレーダ・ リンドリー (1911–2009) ジョン”ザ・ヤンガー” ケズウィック (1906–1982)
3人の息子と1人の娘 ジョン・ クリストファー・ ルパート・ ブキャナン- ジャーディン 不明 アメリア・ ケズウィック (b. 1929) アンソニー・M・ ウェザオール (b. 1924) ヘンリー・ ケズウィック (b. 1938)チッペンデール "チップス" ケズウィック (b. 1940)サラ・メリー・ ラムゼイ (b. 1945) サイモン・ リンドレー・ ケズウィック (b. 1942)エマ・ チェットウード (b. 1950)
ジェイミー・ ルパート・ ブキャナン- ジャーディン (b. 1994) キャサリン・ ウェザオール (b.1956) エドワード "パーシー" ウェザオール (b. 1957)クララ・ メリー・ ジョンストーン (b. 1960) アイソベル・ ウェザオール (b.1962) ベンジャミン・ウェザオール (b. 1966) デイビッド・ ケズウィック トビアス・ ケズウィック (b. 1968) アダム・ ケズウィック (b.1973) クレア・ デイビッドソン
ベンジャミン・ウィリアム・ ケズウィック (b. 1972) ポピー・ テレサ・ ケズウィック (b. 1978) アーキバルド・デイビッド・ ケズウィック (b.1980) ウィラ・ メリー・ チャイナ・ ケズウィック (b. 1985)
バートラム・ ケズウィック (b. 1989) ステラ・ ケズウィック (b. 1991) ルビー・ ケズウィック (b. 1994) オナー・ ケズウィック (b. 1997) エダ・ローズ・ ケズウィック (b. 2008) アイリーン・ ケズウィック (b. 2010) ロス・ ケズウィック (b. 2010)
関連項目
脚注
注釈
出典
参考文献
William Keswick, 1835–1912: Jardine's Pioneer in Japan by J. E. Hoare, Chapter 10, Britain & Japan: Biographical Portraits ISBN 1-903350-14-X
The Thistle and the Jade: A Celebration of 175 Years of Jardine, Matheson & Co. by Maggie Keswick
Jardine Matheson Archives from Cambridge University
外部リンク