ワーズワスはこの後1793年に最初の二作品を出版するが、よい評価は得られず、フランスへも戻れず、開戦の衝撃もあり精神的危機(一般的に彼の モラル・クライシス: Moral Crisis と呼ばれる)に陥る。ロンドンではゴドウィンやフレンドなど、当時の英国の急進派とも接触し、友人や知人を頼り英国国内を転々としたこのころがワーズワスの最もラディカルな時代である。彼はまだ無名だったが、政治パンフレット『ランダフ主教への手紙』(Letter to the Bishop of Llandaff, 1793)も書いたが未完で、当時すでに急進派の取り締まりが始まっており出版もできなかった。この後しばらくワーズワスにとってモラル・クライシスの暗い日々が続いた。
1799年5月に入りイギリスに帰国したワーズワスは、幼なじみで後に結婚することになるメアリ・ハチンスン(Mary Hutchinson)の家族が経営するダラム郡の農場に滞在した後、12月末に湖水地方のグラスミア湖近くのタウン・エンド(Town End, Grasmere)に居を構える。後にダヴ・コテージ(英語: Dove Cottage)[1]と呼ばれる現存の住宅である。翌年 コールリッジとロバート・サウジーもこの近く、湖水地方北部の中心地、ケジックのグリータ・ホール(Greta Hall, Keswick)に転居してくる。三人は「湖水詩人」として知られるようになる。この時期、ワーズワスが書いた詩の主題は、自然を愛でたものだけではなく、時事的なもののほか別離、忍耐や悲しみに関するものもあり、傑作の中・小品詩が多く、『抒情民謡集』第2版以降から1807年出版の『二巻詩集』(Poems in Two Volumes)に蒐集された。この1798年 - 1807年の頃が傑作を生みだしたワーズワスの驚異の時代と言われる。
1807年、ワーズワスは『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』以降の抒情詩を蒐集した『二巻詩集』(Poems in Two Volumes)を出版する。彼の傑作詩を多く含んだこの詩集は、「大哲学的叙事詩」を期待していたコールリッジにとっては期待外れだったが、後にはワーズワスが評価される要因ともなった。しかしこのころまで経済的窮乏は続いていた。ワーズワスはグラスミアではタウン、エンドからアラン・バンク、グラスミア牧師館を転々としたが、この間二人の子を失っている。またあれほど親しくしていたコールリッジとも1810年頃から不仲になっていった。一方ワーズワスはこの時期に散文も書いており、1808年には政府のナポレオンとの協定を批判する『シントラ協定』Convention of Cintra を書き始め翌年出版。さらに後に彼の『湖水地方案内』として詩集以上に人気を集めた散文の初版を1810年に無記名で公開している。なおグラスミアでは牧師館在住時にこの地の学校で教鞭もとったという。
1815年にワーテルローの戦いでナポレオン戦争が終わるとワーズワスとその家族はフランスなど大陸に旅することも増え、1822年には『大陸旅行の記念』(Memorials of the Tour on the continent)を出版したほか、湖水地方に纏わる『ダッドン川ソネット集』(River Duddon sonnets、 1822)さらには1810年以来の散文の『湖水地方案内』(Description of the Scenery of the Lakes、 1822; Guide to the Lakes, 1835)をしめて5回出版している。当時英国の国内旅行も盛んになり、この『湖水地方案内』はたいそう好評で、人によっては彼を詩人と知らず、このガイドブックの著者としか知らないということもよくあった。
長命であったワーズワスは、名声と栄誉を得たものの、かつての友人や家族の死という避けられない悲劇に直面しなければならなかった。1803年のスコットランド旅行で初めて出会い、その後親交を続けてきたウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 1771 - 1832) がまず亡くなり、1834 年には 7 月にコールリッジ、12 月に チャールズ・ラム(Charles Lamb、1775 - 1834)が亡くなった。翌年、1835年に スコットを通じて知り合ったスコットランドの羊飼い詩人ジェームズ・ホッグ(James Hogg, 1770 - 1835)が亡くなると、ワーズワスは優れたエレジー “Extempore Effusion upon the Death of James Hogg” を書き、この頃亡くなった友人や知人たちに 哀悼を表した。一方新たな友人もでき、トマスとマシュー・アーノルド父子が湖水地方に住むようになり、また後世に優れたワーズワス関係のノートを残すことになるイザベラ・フェニックとも知り合いになった。
1839年には『序曲』の最終的な改訂を済ませ、42年に『青年期初期後期の詩』(Poems, Chiefly of Early and Later Youth )を出版後、ワーズワスは印紙販売官の仕事を息子に譲り、辞職した。1843年にはサウジーが亡くなった後、次の桂冠詩人(Poet Laureate)に推挙された。ワーズワスは当初老齢を理由に辞退したが、ヴィクトリア女王の個人的希望の指名だと聞いて受け入れたという。彼がこれ以前この地位を希望したことは全くなかったが、1837年に18歳で即位し、その若さゆえに王位が務まるか危ぶまれたが、6年後の当時名君ぶりを発揮し始めた若きヴィクトリア女王の願いをかなえることにしたのである。ワーズワスは桂冠詩人らしい仕事はしなかったようだが、次のような4行詩は当時の時代的価値観をあらかじめ提示したといえよう。
Small service is true service while it lasts.
Of humblest friends, bright creature! scorn not one:
なお、詩人ワーズワスの末弟 Christopher Wordsworth(1774 - 1846)からつながる子孫の Johnathan Wordsworth(1932 - 2006)は最終的に Professor of English Literature at St Catherine's College, Oxford となり、自らの先祖の詩人研究の権威で、わが国の英文学会にも縁があり、何度か来日し講演もした。
ロマン主義は、どこにもない、しかしどこかにある理想の世界や、境地を絶えず求めてやまない心情の発露として形象化される。『水仙に献げる詩』や『霊魂不滅のうた(Intimation of Immortality)』においても、ワーズワスは具体的な水仙や、森や野をうたいつつ、実はその彼方にある神秘的な心情の陶酔、どこにもないが、まさに「魂の深奥」に存在する「共感の歓喜」を讃美しているのである。
まず1928年に セリンコート(Ernest de Selincourt、1870 - 1943)により1805年版が出版された。これは『抒情民謡集』の頃の清新な抒情性をとどめていると評され、この後20世紀の後半まで1850年版よりも1805年版の評価が高く、主に後者が読まれてきた。しかし20世紀の終わりころになると1850年版も見直され、両者は並列して編纂され対照して読まれることが多くなったと言えよう。
20世紀後半から英国ロマン派作品の編纂革命とも呼ばれる展開があったが、その中で「コーネル・ワーズワス」というワーズワス詩の学術叢書が出版された。この『序曲』も1798-9年に創作された2部版が The Prelude, 1798 - 1799(ed. S. Parrish, 1977)として、1805年版が The Thirteen-Book Prelude(ed. M. L. Reed, 1991)、さらに1850年版が The Fourteen-Book Prelude(ed. W. J. B. Owen, 1985)として出版され学術的に決定版となっている。これらの他に20世紀後半から現代にかけてペンギンやオックスフォード・ペーパーバックなどで多くの単独版が出されているが、1805年版と1850年版をページ見開きに組むものが多く、これに1798-99年の2部版を冒頭に載せたものもある。
The Prelude という題はワーズワスがつけたものではなく、1850年の没後出版時に付されたものである。しかし1814年に『逍遥』が公開された時にワーズワスは前書きでこの詩がすでに完成されていること、そしてそれが『隠者』の第一部を成すことを示唆している。しかしアメリカの英文学者ケネス・ジョンストンによると『隠者』の第一部は1888年に没後発表となるHome at Grasmere と1808年の The Tuft of Primroses がその一部をなす予定であったが未完成のままで、第二部が『逍遥』、第三部は全く書かれなかったといい、『序曲』は文字通りこれら三部作全体の序になる、礼拝堂前室('ante-chapel')乃至は玄関先柱廊(portico)のごときものだったと述べている(Cambridge Companion to Wordsworth, ed. Stephen Gill, 2003, 70-71)『隠者』全体の構想がいかに膨大なものであったかがうかがわれる。
しかし『序曲』は玄関先柱廊とか礼拝堂前室に例えるにはあまりにも大作で深遠、ある意味難解な抒情的叙事詩であり、ワーズワスの前半生の魂の成長を物語る傑作である。わが国ではかなり質の高い英文学科なら学部で取り扱うこともできるが、内容的には大学院レヴェルで、英米圏の大学の English でも容易に扱えるものではないと思われる。以下一部印象的な数行のみ取り上げてみよう。
Book I より
Fair seed-time had my soul, and I grew up
Fostered alike by beauty and by fear.
美と等しく恐怖に育まれて。
わが魂は時にかなった種蒔き時を得、私は育った、
(1805, I 303-4)
Wisdom and Spirit of the universe!
Wisdom and Spirit of the universe!
Thou Soul that art the Eternity of Thought!
. . . . Thou intertwine for me
The passions that build up our human Soul,
大宇宙の知恵と魂よ!
大宇宙の知恵と魂よ!
汝、思考の永遠性たる魂よ!
・・・・・汝は私のために織り成す、
我ら人間の魂を構成しあげる情熱を。
(1805, I. 427-434; Also in 'Influence of Natural Object' in The Friend, 1809, ed. S. T. Coleridge)