アルフレッド・ブライアン(Alfred Bryan、1871年9月15日 – 1958年4月1日)は、アメリカ合衆国のソングライター、平和運動家。
ブライアンは、カナダのオンタリオ州ブラントフォードに生まれ、育ち、1886年にオンタリオ州ロンドンに移り住んだ。その後、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに移って、新聞記者になったが、1905年ころまでにはニューヨークでソングライターになっていた[1]。
最初にヒット作となったのは、ブライアンが作詞し、フレッド・フィッシャー(英語版)が作曲した「Come Josephine in My Flying Machine」(1910年)であった。同じくフィッシャー作曲の「Peg O' My Heart」(1913年)もヒット作となり、数多くの歌手や楽団に取り上げられ、最近でも新たに録音されている[2]。
第一次世界大戦が始まり、米国の世論が参戦の可否をめぐって割れていた1915年に、ブライアンは明確に反戦のメッセージが込められた「I Didn't Raise My Boy to Be a Soldier」(「私は我が子を兵士にするため育てたわけではない」の意)を、アル・ピアンタドーシ(Al Piantadosi)の作曲で発表し、ヒットさせた。しかし、既に戦争に入っていたイギリスやフランスでは、この曲は販売禁止となった[1]。
その後、ブライアンは、1920年代にはブロードウェイのレビューなどに曲を提供し、さらに1930年代から1940年代にかけてはハリウッドで映画用の楽曲を作った[1]。
ブライアンは、1958年にニュージャージー州グラッドストーン(Gladstone)で死去した[1]。
ブライアンがヒットさせた曲
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