Do 19の搭乗員は操縦士、副操縦士、航法士、爆撃手、通信士、銃手5名の計10名であった。
試作機のV1号はヴェーファー中将が航空機事故で死亡した後の1936年10月28日に初飛行を行ったが、重爆撃機計画は勢いを失い、復活することは無かった。後にドイツ空軍が英国の空で手酷い一撃を加えられた際も、航空戦力の中でも特に重爆撃機を保有していないことから戦略爆撃能力が大きく欠落しているという、この航空作戦続行を断念させる致命的な弱点が戦闘が始まってから露呈した。しかし、そのとき望まれるような爆撃機を今日明日に開発する事は不可能で、後継機の開発も遅きに逸した。
ヴェーファーの後任のアルベルト・ケッセルリンクはドイツ国が要求するものは、より多くの戦闘機と戦術爆撃機であると信じていたためV2号とV3号試作機は破棄され、V1号は1938年に輸送機に改装された。ドルニエ Do 19は試作段階までしか進まなかったが有用な長距離爆撃機となり得る設計の機体であった。