この項目では、オランダの貨物自動車メーカーについて説明しています。その他のDAFについては「DAF 」をご覧ください。
DAF・LF ユーロ6
DAFトラックス N.V.(ダフ・トラックス、DAF Trucks)は、オランダ のアイントホーフェン に本拠地を置くヨーロッパ の商用車 メーカーである。パッカー グループの一員。数回の社名変更と会社再編を経て、現在はトラック のみを生産するダフ・トラックスとなっている。主要工場はオランダに構え、キャビン と車軸 はベルギー のウェステルロー (英語版 ) で製造が行われている。
いくつかのモデルはイギリス の貨物自動車メーカーであるレイランド・トラック で開発された車両であり、レイランドDAF ブランドとしての販売が行われた。
かつては乗用車も手がけた。特にCVT 車を初めて商業的に成功させ、1959年からボルボ に部門を売却する1970年代半ばまであらゆる乗用車に搭載し量産し続けていたことで知られる[ 2] 。
概要
1928年、フーベルト・"フップ"・ファン・ドールネ が自動車修理工場「Commanditaire Vennootschap Hub van Doorne's Machinefabriek(フップ・ファン・ドールネの機械工場合資会社)」として創業した。共同創業者で投資家のA. H. Huengesは醸造所の最高経営責任者だった。ファン・ドールネがHuengesの車を何度か修理したことがあり、ファン・ドールネの仕事に満足したHuengesは事業への資金提供を申し出た。フップは醸造所の敷地の小さな作業場で仕事を開始した。
1932年、それまでにフップと弟のヴィム・ファン・ドールネ (オランダ語版 ) によって経営されていた会社は社名を「Van Doorne's Aanhangwagen Fabriek(ファン・ドールネのトレーラー 工場)」、略称「DAF」へと変更した。Huengesは1936年に会社を離れ、DAF社は完全にファン・ドールネ兄弟が所有することになった。
DAFは4×2 駆動のフォード製トラックをオフロード用6×4 (英語版 ) 駆動に改造したトラド (英語版 ) を開発した。DAFの数少ない装甲車両 の1つであるM39パンサーワーゲン (英語版 ) はこのトラドのドライブトレイン の発展形を使用している。M39の生産は第二次世界大戦 には遅過ぎであり、オランダ侵攻 (1940年)でわずか3台が戦場に出ただけに終わった。
第二次世界大戦後、高級車とトラックが非常に不足していた。これはDAFによって大きなチャンスを意味した。1949年、貨物自動車 、トレーラー、バスの製造を始め、社名を「Van Doorne's Automobiel Fabriek(ファンドールネの自動車工場)」に変更した。初の貨物自動車モデルがDAF A30である。
1950年代を通して、DAFはオランダ軍の非装甲車輛 (英語版 ) の再装備の主要な供給業者だった(DAF YA-126およびDAF YA-328 'Dikke Daf' など)。これらはトラドから発展した全輪駆動Hドライブ (英語版 ) を使用した。
DAF・600の製造ライン(1959年2月 アイントホーヘン)
1954年末、フップ・ファン・ドールネは工場にたくさんあるベルト駆動機械のように、道路車両を駆動するためにベルト駆動 式無段変速機 を使うことを思い付いた。1955年、DAFは自動車のベルト駆動システムの原案 を作成した。その後数年をかけて、この設計を進化、洗練させていった。1958年2月、DAFはオランダの自動車ショー(AutoRAI (英語版 ) )で小型ベルト駆動式4シーター車を展示した。
世間の反応は非常に良く、4千台の注文があった。1959年、DAFは無段変速機 を搭載した世界初の自動車、小型4シーターのDAF・600 の販売を開始した。その後、この革新的なヴァリオマチック トランスミッションシステムを使ったDAF・33 、DAF・44 、DAF・55 、DAF・66 が発売されていった。
1967年、DAFはボルン (英語版 ) に自動車生産のための新工場を開いた。DAF 44がここで生産された初めてのモデルである[ 3] 。
1972年、シカゴ のインターナショナル・ハーベスター (英語版 ) がDAFの株式の33%を取得し(オランダ政府が25%、ファン・ドールネ家が残りの42%を保有)、共同事業を作った。この合意は1981年まで続いた。1975年、DAFは乗用車部門とボルンの工場(現在はネッドカー の工場)をスウェーデンのボルボ・カーズ に売却し、成功していたトラック部門に注力することになった。
1987年、DAFはローバー・グループ のレイランド・トラックス [ 注釈 1] と合併し、1989年6月にオランダとロンドンの証券取引所 にDAF NV (英語版 ) として上場した[ 4] 。この新会社はイギリスではレイランドDAF 、それ以外ではDAFとして事業を展開した。
1990年にDAFバス が分離して、ユナイテッド・バス (英語版 ) [ 注釈 2] の一部となった[ 5] 。分社化する等経営の合理化を図ったが、イギリス市場での苦境を受けて、DAF NVが1993年2月に行政管理下に置かれた後、マネジメント・バイアウト によって、英国内のトラック事業部はレイランド・トラック 、バン 事業部はLDVリミテッド となり、オランダ国内の事業部は新会社ダフ・トラックス(DAF Trucks NV)として再出発した。
1996年10月、アメリカ合衆国のパッカー がDAFトラックスを買収した[ 6] 。パッカーがレイランドトラックスも買収したため、DAFトラックスとレイランド・トラックスは1998年6月に再合併した[ 7] [ 8] [ 9] 。
2012年1月9日、パッカーはブラジル、パラナ州 、ポンタ・グロッサ (英語版 ) に新工場の隅石を設置した。
乗用車部門
1958年-1975年の主な車種
600 - DAF最初の乗用車。変速機に後輪1輪に対しひとつずつのベルト式無段階変速機(ヴァリオマチック )[ 10] を採用。現代のCVT の基礎ともなったこの変速システムは以後のDAF製乗用車へ活用される。その後33へラインチェンジ。
30/31/32 /33 - 2気筒小型車。
44 /46 - 30の上級版である2気筒小型車。
55 (英語版 ) /66 - 4気筒小型車。WRC 制定前からの世界ラリー[ 11] [ 12] やレースで活躍。66はルノー製エンジンを奢られたスポーツモデル「1300マラソン」から2ドアセダン、クーペ、3ドアハッチバックや軍用車の派生版も存在し、ボルボ傘下となってもクーペ以外は生産を継続された。
モータースポーツ
DAF・66による氷上レース
パリ=ダカール・ラリーにDAFのトラックで参戦するヤン・デ・ルーイ(右から三番目)と、彼の率いるダッチ・ディーラー・チーム(1982年大会)
2013年ダカールに参戦するピーター・ファン・デン・ボッシュのDAF・CF
DAF・600のテストで、バリオマチックは様々な地形においてトラクション制御や操縦性に優れていることがわかっていたが、1960年にモータースポーツで600に乗って成功を収めたオーストリア 人ルディ・フンガーの活躍が、DAFがワークスチーム を設立するきっかけとなった[ 13] 。折しもこの頃、DAFのCVT車は当時の主流だったMT車に比べて運転が簡単だったため、「小さいお婆さんの車」というイメージがついてしまった。そこでこの払拭のためにモータースポーツへの参戦という手段が取られることとなった[ 14] 。
DAFのワークスチームはロブ・コックが率いて1964年から1972年までサーキット 、ラリー 、ラリークロス 、クロスカントリー で活動した[ 15] 。
1965年からCVTのF3 マシンを開発した。最初は量産車用CVTが競技専用車に適さないという問題があったが克服され、1966年にブラバム・BT18 のシャシーを用いてゾルダーのレースで3位に入った。1967年には独自設計のシャシーを開発したが、排気量が1リッターの時代だったこともあり、ヴァリオマチックの駆動損失の大きさに悩まされたものの、雨ではむしろホイールスピンを抑えられるため速さを得ていた。ブランズハッチ (英国)とスカルプナック(スウェーデン)で勝利を収めた。CVTの可能性を示すことができたDAFは翌1968年を最後にF3から撤退した[ 16] 。
1968年シドニー-ロンドン・マラソンに、ルノー 製1,100ccエンジンを積んだ2台のDAF・55をエントリーさせ、両方完走させた。また同時期ラリー・モンテカルロ 、ラリー・サンレモ 、オーストラリア国際ラリー、マラソン・デ・ラ・ルート(80時間以上の耐久レース)など様々なイベントにDAFのチームが複数エントリーし、しばし小排気量車クラスで1位を獲得した[ 17] 。
1971年に当時の新興カテゴリだったラリークロス にも、当時まだ珍しかった、乗用車に四輪駆動 を組み込んだヴァリオマチックのDAF・555クーペ 4x4を投入し、ヤン・デ・ルーイがドライブした。四輪駆動車に課せられた重いハンデをものともせぬ強さで国内外を席巻し、1972年限りで四輪駆動車が禁止される原因を作るほどに大暴れした。直後にDAFはワークスを解散し、ファルケンスワールトのDAFユーザーであったルイブレグツ一家に機能が移管され、しばらくプライベーターへの支援が行われた。
乗用車部門売却後の1980年代にラリーレイド へと転身し、1987年にヤン・デ・ルーイによりダカール・ラリー のトラック部門を制覇した。しかし翌1988年に死亡事故を起こして撤退した。2000年代にヤンの息子のジェラルドがDAFで復活するが、2006年大会で公認をめぐる紛糾の末スタート前に失格となったのがきっかけで他社に乗り換えてしまい、以降DAFは総合優勝に絡む戦いはできていない。
DAFのCVT車は前進と後退で同じ速度を出せるため、後退状態でサーキットを走るリバース・レーシングなるものがオランダで流行した[ 18] 。
製品
ファン・ドールネース・トランスミッシー
1965年にヴァリオマチックの発展は止まらなかった。1970年代以降、後継システムのトランスマチック(Transmatic)開発が進行していた。このシステムの心臓部はゴムベルトではなく、金属製プッシュ式ベルトであった。トランスマチックの開発はティルブルフ に設立された別会社のファン・ドールネース・トランスミッシー(オランダ語 : Van Doorne's Transmissie 、略称VDT )で行われた。DAFの乗用車部門を買収した際に、ボルボはこのシステムの権利も得られると考えていた。しかし、DAFとファン・ドールネはこれを否定した。法廷で争われた結果、ファン・ドールネが勝利した。ボルボはボルンで生産する車ではCVTという名称の下でヴァリオマチックを使用し続けた。ヴァリオマチックを搭載した最後のモデル、ボルボ・340 の最後の1台は1991年に生産ラインから離れた。VDT社は1995年にドイツのボッシュに買収された。それまでの間に、金属プッシュベルト式CVT(トランスマチック)は実用化され、フィアット・パンダ 、フォード・フィエスタ 、スバル・ジャスティ 、スズキ・アルト 、日産・マーチ などいくつかの小型乗用車に採用されていた。1993年にはボルボ・440 1.8iのCVT車が販売された。
2009年12月1日からはBosch Transmission Technologyに名称を変更した。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク