11日戦争 (11にちせんそう)は、第一次世界大戦 の東部戦線 における中央同盟国 の最後の攻勢である[1] 。ファウストシュラーク作戦 (ドイツ語 : Operation Faustschlag )として発動された。ロシア革命 とロシア内戦 の余波を受け、ロシア軍はもはや抵抗する事もできなくなっていた。それゆえ中央同盟国はバルト三国 、ベラルーシ 、ウクライナ の莫大な領域を占領するに至り、ボリシェヴィキ はブレスト=リトフスク条約 を調印させられる事になった。
背景
ボリシェヴィキ は十月革命 によりロシアの権力の座につき、第一次世界大戦からの離脱を全世界に宣言した。1917年 12月3日 からブレスト=リストフク にて、ソビエト と中央同盟国の間で停戦交渉が始まり、12月17日 から戦闘停止が有効になった。12月22日 から和平交渉が続けて行われた[2] 。
交渉が始まり、中央同盟国は1914年 から1916年 の間に占領した、ポーランド 、リトアニア 、西ラトビア の領土を要求した。ボリシェヴィキはこの提案を受諾しないことを決定し、交渉を長引かせて時間を稼ごうとしたため、停戦協定は破棄された[3] 。ロシア代表団のレフ・トロツキー は交渉を遅らせる事で、ドイツ革命 が起き、ドイツが戦争から離脱する事を期待していた[4] 。
トロツキーは戦争継続派と即時講和派の中間の立場を取っていたが、1月28日 にソビエトロシアは戦争が終わったと宣言した[5] 。この宣言は既に西部戦線 に兵を送り始めたドイツ軍にとって受け入れ難いものであった。ドイツ軍の参謀であったホフマン将軍は2月9日 にウクライナ人民共和国 と平和条約を結び、2月17日 にはロシアとの休戦を破棄した[6] 。
交渉が進められている間、赤軍の司令官のニコライ・クルィレンコはロシア軍の民主化と動員解除を監督しており、軍の司令官を投票で決め、全ての階級を廃止し、兵士を故郷へと帰していた。1月29日 にクルィレンコは全軍に対して民主化を命令した[7] 。
攻勢
1918年3月、キエフのドイツ軍
2月18日 、ドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍は53個師団を率いて、3方向から攻勢を開始した。北方軍はプスコフ からナルヴァ へ、中央軍はスモレンスク へ、南方軍はキエフ へそれぞれ進軍した[8] 。
北方軍は16個師団から構成されており、攻勢の初日にダウガフピルス を占領した[1] 。さらにプスコフにも進軍し、2月28日 にはナルヴァを占領した[6] 。中央軍はドイツ第19軍と第41軍団から構成されており、スモレンスクへと進軍した[6] 。2月21日 にはミンスク を占領し、ロシアの西方軍集団の司令官を捕虜とした[1] 。南方軍はロシアの残存する南西方面軍集団を突破し、2月24日 にはジトーミル を占領した。3月2日 にキエフは防衛されており、翌日にはウクライナ中央評議会 の軍がキエフに到着した[1] 。
中央同盟軍は大した抵抗もなく、1週間で240kmも前進した。ドイツ軍はペトログラード から160kmの地点まで進出したため、ソビエトは首都をペトログラードからモスクワ に遷都した[6] 。この戦いはドイツの兵士がロシアの鉄道を使って東に進出したため、鉄道戦争とも呼ばれている[9] 。ホフマンは2月22日 の日記で以下のように記載している[1] [10] 。
これは私の知っている中で最も滑稽な戦争だ。我々は機関銃を持った僅かな兵士達に野砲を装備させて鉄道に乗り、次の駅へ急行した。そして多数のボリシェヴィキの捕虜を捕らえた。少なくともこのような前進はとても珍しく興味深いものだ。
政治的影響
ドイツ軍の攻撃は継続され、レフ・トロツキーはペトログラード へと戻った。多くの指導者は軍の崩壊により、ロシアが全く抵抗できないにもかかわらず、戦争の継続を臨んだ[6] 。ウラジーミル・レーニン は、攻勢はより激しいものとなるため、ドイツの要求を受け入れるべきであるとソビエトの指導者に訴えた。レーニンを支持するものとして、レフ・カーメネフ 、グリゴリー・ジノヴィエフ 、ヨシフ・スターリン がいた[9] 。
嵐のようなレーニンの議会の支配が終わった後、ドイツの講和を受け入れる議決が166票中、85票獲得し、可決された。中央委員会 も7人の賛成と6人の反対の僅差で可決された[10] 。そしてトロツキーもドイツの降伏を受け入れるように考えを改め、3月3日 にボリシェヴィキはブレスト=リトフスク条約 に調印した[6] 。
2月23日 にドイツ軍はレヴァル に到着し、翌日エストニア救済委員会はエストニア からの独立を宣言した。ドイツの占領軍はエストニアの政府を認めず、ドイツの占領局を設置した[11] 。
2月24日、全露ソヴィエト中央執行委員会がドイツの提示した講和条件の受諾を伝えた[12] 。
結果
ブレスト=リトフスク後の国境線
ボリシェヴィキの降伏により中央同盟国のナルヴァ から北ウクライナに至る戦線での進軍は止まった。ボリシェヴィキはブレスト=リトフスク条約で、南ロシアの全ての領土を放棄した。次の数週間で、中央同盟国の南方軍は800km以上進軍し、全ウクライナを占領した[1] 。
ドイツ軍はコーカサス とフィンランド では作戦を継続させており、フィンランド内戦 では白衛軍を支援した。条約の締結により、バルト海 の海軍はクロンシュタット を除き、全てドイツ軍に引き渡されており、オデッサ の黒海艦隊 は武装解除した上で、係留させられた。ボリシェヴィキは63万人のオーストリア・ハンガリー帝国 の捕虜返還に同意した[13] 。
ブレスト=リトフスク条約によりソビエトロシアはエストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナを放棄し、ロシアの影響を受けず、各国が独立して発展する事を可能にした。ドイツはこれらの国を自らの衛星国 にする事を計画したが、西部戦線での敗北により計画は消滅した[14] 。そのため、ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスの地域にて、ポーランド、フィンランド、バルト3国が独立する事になった[15] 。
ボリシェヴィキ内で、レーニンの地位は盤石であったが、ドイツ軍がバルト方面に進軍したため、3月12日 にレーニンは首都をペトログラードからモスクワへ遷都した。ブレスト=リトフスク条約についての議論は強く抑圧され、レーニンは二度とブレスト=リトフスク条約受諾の様な政治的リスクの高い選択をすることはなかった[16] 。
脚注
^ a b c d e f Mawdsley (2007), p. 35
^ Tucker & Roberts (2005), p. 662
^ Mawdsley (2007), p. 31-32
^ Tucker & Roberts (2005), p. 662-663
^ Mawdsley (2007), p. 32
^ a b c d e f Tucker & Roberts (2005), p. 663
^ Mawdsley (2007), p. 34
^ Woodward (2009), p. 295
^ a b Mawdsley (2007), p. 33
^ a b Gilbert (2008), p. 399
^ Parrott (2002), p. 145
^ トロツキー 1918,P166
^ Gilbert (2008), p. 402
^ Mawdsley (2007), p. 37
^ Raffass (2012), p. 43
^ Mawdsley (2007), p. 36-37
参考文献
レフ・トロツキー (西山克典訳) 『ロシア革命 「十月」からブレスト講話まで』(柘植書房、1995年) ISBN 4806803812
Gilbert, Martin (2008). The First World War: A Complete History. Phoenix. ISBN 9781409102793
Mawdsley, Evan (2007). The Russian Civil War. Pegasus Books. ISBN 9781933648156
Parrott, Andrew (2002). "The Baltic States from 1914 to 1923: The First World War and the Wars of Independence" (PDF). Baltic Defence Review. Retrieved 2013-01-27.
Raffass, Tania (2012). The Soviet Union - Federation or Empire?. Routledge. ISBN 9781136296437
Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla Mary (2005). World War I: A Student Encyclopedia. ABC-CLIO. ISBN 9781851098798
Woodward, David R. (2009). World War I Almanac. Infobase Publishing. ISBN 9781438118963
経過
背景 序章 1914年 1915年 1916年 1917年 1918年 講和 大戦後
戦線
主な参戦国
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