龍神事件(りゅうじんじけん)は、1923年(大正12年)5月から6月にかけて発生した大阪相撲の紛擾事件である。この事件で当時の4大関をはじめ幕内力士の半数が引退し、既に東京相撲との実力・環境における格差が問題となっていた大阪相撲の弱体化が一層進むこととなった。
経緯
大正12年5月場所は5月11日初日の予定で5日に新番付が発表された。
9日夜、横綱宮城山を除く十両以上の全力士代表として4大関以下10名が高田川(元早瀬川)、岩友(元響矢)の両取締を訪ねて協会を訪問し養老金問題に関する7箇条の要求書ならびに出願書を提出し交渉を開始。協会は将来の禍根を断つため強硬な態度を示したので力士会側も加盟力士および行司は全員大阪を引き上げ堺市大浜公園九万楼に集合し結束を固めた。その後すぐに拠点を大浜公園近くの龍神遊郭内に移した。そのため同事件は「龍神事件」と呼ばれる[1]。
協会は幕下以下の力士のみで予定通り11日に場所の初日を開けた。人気力士だった13代朝日山(元二瀬川)、12代千田川(元小染川)が初めて勧進元を務めることや協会への同情もあり初日は6分の入りながら尻上がりに盛況を呈し6日目からは意外の大入りで20日千秋楽を打ち上げた。千田川門下の幕内5力士は力士会を離れて師匠に協力し、宮城山の土俵入りに際して鉄ヶ濱(元東京前頭稲葉嶽)は露払いを、千葉ノ浦は太刀持ちを務めた[2]。
この間に官憲や顔役連の仲裁もあり、協会も譲歩して力士会の要求を全部受け入れることとするが力士会側は公正証書の作製まで主張したことから再び関係は悪化し仲裁者も一時撤退した。しかし本場所も打ち上げ両者の感情も和らいだことから双方妥協し31日に盛大な手打ち式が行なわれた。
手打ちは行なったものの力士会側は上記の千田川部屋力士の離脱を快く思っておらず、堺市で行われることとなった謝恩興行の番付から5力士を削除した。この事態に千田川は憤慨して角界からの引退を表明、門下の鉄ヶ濱以下20数名の力士も師匠に殉じて断髪引退したことから事態は紛糾し取締以下全協会役員が辞職した。これに関連して朝日山部屋の二瀬川、大泉が引退すると力士会役員の上州山、大木戸、平錦の3大関に関脇滝ノ海、小結有若、元大関の朝日嶽、時潮の7名が責任上連書引退届を出し、また新大関の大嶋も単独で引退を声明するなど大混乱となった。
6月14日、協会は残余の幕内力士19名十両20名十両格以上の行司17名を集め役員選挙を行い取締に小野川(元加古川)、朝日山が選出された。他役員も一新され和解記念として残留幕内力士のため再度夏場所興行を行うこととなった。これによりこの紛擾も大団円となったものの幕内力士20余名、行司2名が土俵を去ったのは大阪相撲にとって大損失だった。
6月23日から再度の夏場所が行われたものの再編成された番付は幕内のみ片番付の寂しい物でありまた横綱宮城山、関脇瀬戸山が休場したこともあって人気は芳しくなく10日間で満員の日は一度もなかった。
大正12年5月場所番付
- 凡例
- 引退 引退後復帰
大正12年6月場所番付
脚注
- ^ 「相撲」2001年7月号166頁
- ^ 日本相撲史の記述による。番付は鉄ヶ濱の方が上である
- ^ 東京相撲の出羽海部屋に入り1924年(大正13年)1月幕内最下位に付け出された。
- ^ 1925年(大正14年)1月に十両格で復帰するも1926年(大正15年)1月に廃業。東西合併後の1928年(昭和3年)1月出羽海部屋に入り十両最下位に付け出された。
- ^ 1924年(大正13年)1月幕内格で復帰
- ^ 東京相撲の出羽海部屋に入り1924年(大正13年)1月朝千鳥の名で十両最下位に付け出され3日目に1番だけ取ったが大阪への復帰が許され同月幕内格で復帰
- ^ 出場せず廃業。1925年(大正14年)1月十両格で復帰。
- ^ 出場せず廃業。
参考文献
関連項目
- 三河島事件 - 龍神事件の原因となった東京相撲で起きた紛擾事件。