顕粛皇后(けんしゅくこうごう)は、北宋の徽宗の皇后。姓は鄭氏。
生涯
初め欽聖皇后(徽宗の嫡母)の侍女を務め、後に端王趙佶(後の徽宗)の側室となった。低い身分に生まれながらも美貌で詩才があったため、寵愛を受けた。端王趙佶が皇帝に即位した後、初め才人となり、嬪に進み、貴妃にいたった。政和元年(1111年)、皇后に立てられた。
多くの女子を産んだ。父の鄭紳(元は直省官)は太師に任じられ、また楽平郡王に封ぜられた。
宣和7年12月23日(1126年1月18日)、徽宗の譲位により欽宗が即位すると鄭氏は太上皇后となり、寧徳太后と称された。靖康の変後、金に連行されて多くの辱めを受け、建炎4年9月5日(1130年10月8日)に死去した。南宋において顕粛と諡された。紹興12年(1142年)8月、徽宗の梓宮と共に遺骸が江南へ送還されて会稽の永佑陵に葬られた。
子女
脚注
- ^ 『宋史』巻20, 徽宗紀二 政和元年二月壬寅条による。
- ^ 『宋会要輯稿』巻12, 后妃一 顕粛鄭皇后の項より。
伝記資料