孝章皇后(こうしょうこうごう)は、北宋の太祖趙匡胤の皇后(3番目の正妻)。後唐の荘宗の外曾孫で、後漢の高祖劉知遠の外孫。姓は宋氏。
生涯
河南府洛陽県の人。父は宋偓(後唐の荘宗の娘であった義寧公主の子)。母は後漢の高祖の娘であった永寧公主。
宋の乾徳5年(967年)、後宮に入って朝見し、太祖が気付いた。乾徳6年(968年)2月、皇后に立てられた。
開宝9年(976年)、太祖が急死し、弟の趙光義(太宗)が即位した。太宗が即位すると、皇嫂(皇帝の兄嫁)たる開宝皇后と尊称された。太平興国2年(977年)、西宮に入住した。雍熙4年(987年)、東宮にうつった。
至道元年(995年)4月、崩じた。「孝章」と諡され、永昌陵に附葬された。
逸話
司馬光の『涑水紀聞』によると、夜分に太祖が崩御した時、皇后宋氏は宦官の王継恩を遣わし、皇子の秦王趙徳芳(太祖と孝明皇后の子)を参入させ皇位を継承させようとした。しかし王継恩は皇弟の晋王趙光義を参入させた。皇后は趙光義を見るや否や仰天し、号泣して「われら母子の命はひとえに貴方お一人の手にかかっています」と言った。趙光義は「共に富貴を保とう。憂慮無きよう」と慰め、太祖の棺の前において即位した。
系図
脚注
- ^ 『浮石趙氏族譜』による。
伝記資料
関連項目