青木家(あおきけ)は、武家・士族・華族だった日本の家。近世には周防国大島郡の地下医(民間医)、後に長州藩藩医となった家系だが、近代に外務大臣・外交官の青木周蔵を出したことで、その勲功により華族の子爵家に列せられた[2]。青木周蔵はドイツ貴族令嬢のエリザベート・フォン・ラーデと結婚し、娘ハンナ(花子)もドイツ貴族に嫁いだ関係で、ドイツやオーストリアの貴族の家系には青木周蔵の子孫が存在する[3][4]。
青木家は、清和源氏の青木尾張守信兼の末裔であり[1]、青木和泉守の代の元亀4年(1573年)に毛利元就に仕えるようになったが、尼子氏との戦いで戦死したと伝わる[5]。
その長男の青木肥後守は朝鮮征伐の際に小早川隆景軍に従軍して戦功を挙げた。肥後守はかねてから医学を志していたので、この際に脈経や痘疹方などの医学書を持ち帰って帰国[5]。
慶長9年(1604年)には長州藩主毛利秀就より周防国大島郡と長門国厚東郡で合計120石1斗1升5合を与えられるも、その息子青木善右衛門尉の代に藩を離れ、以降江戸時代末期まで周防国大島郡の地下医の家系として続いた[6]。
江戸末期の当主青木周弼(享和3年正月3日生、文久3年12月16日没)は、長州藩医能美家のもとで漢方医学を学んだ後、オランダ語とオランダ医学を学んで、長崎でシーボルトに入門[7]。
周弼も当初は地下医だったが、天保10年(1839年)に藩医として長州藩に召し抱えられた。周弼の進言を受けて長州藩は、天保11年(1840年)に医学を学ぶ医学館の好生堂を開校。周弼がその蘭学教授となり、藩の医学教育の刷新、洋学の振興に尽力した[8]。特に嘉永2年(1849年)当時流行していた天然痘を防ぐ牛痘接種を学ぶために弟の研蔵(文化12年生、明治3年9月8日没)を長崎に派遣し、弟と共に種痘を藩内に広めるのに貢献した[8][9]。嘉永4年(1851年)には藩主毛利敬親の侍医に選ばれた[8]。安政の頃には藩内のみならず日本全国で屈指の蘭方医としてその名が轟いていた[9]。周弼は、欧米列強によるアジア植民地化の進行に脅威を感じ、西洋兵学を長州藩内に広めることにも尽力した[8]。
周弼が文久3年(1863年)に死去した後、弟の研蔵が養子として家督を相続[9]。周弼には長男の敏之介(嘉永3年7月15日生まれ、明治41年1月27日没)がいたものの、敏之介が生まれる前から実弟の研蔵を嫡子として藩に届け出ていたため、研蔵が周弼の養嗣子として青木家を継ぐことになった[10]。
研蔵は、元治元年(1864年)3月に周弼の後任として好生堂教諭役に任じられ,同年6月には藩主毛利敬親の侍医となった[11]。彼も当代随一の蘭学者との評価が高く[11]、明治維新後の明治元年(1868年)からは宮中に出仕して皇室の侍医となった[12]。
研蔵は明治3年(1870年)9月8日に実男子のないまま死去し、その跡を継いだのが、養子の青木周蔵であった[9]。
青木周蔵は、長州藩西部の吉田宰判土生浦小土生の地下医三浦玄仲の長男として生まれた。三浦家も代々地下医の家系だった[13]。初名は三浦玄明。オランダ語学習を行った後、元治元年(1864年)に好生堂が平民に開かれたのを機に入学して医学を学ぶ[14]。頭角を現して研蔵の目に留まり、養子に入ることを求められた。はじめ三浦家の跡継ぎであることから断っていたものの、結局、藩内でも有数の医家になっていた青木家に養子入りすることを決め、慶応元年(1865年)11月に周弼の次女(研蔵の養女)照子と結婚して、青木家に婿養子入りした。以降「青木周蔵」となる[15]。
海外留学を希望していた周蔵は、木戸孝允に才を見出され、明治元年(1868年)から長州藩の藩費でプロイセンへ留学[16][17]、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学医学部で学んだ[18][3]。明治6年(1873年)には岩倉使節団のドイツ語通訳を務め[3]、その際に木戸の推挙で外務省に入省して外交官の道を進むことになり、ベルリン公使館駐在の外務一等書記官心得に任じられた[16]。翌年には駐ドイツ公使に任じられた[3]。
その後、一時的な帰国を除いて、明治18年(1885年)の帰国命令までベルリンで過ごす。12月10日に後の次官相当の外務大輔に任じられたが、同月に内閣制度の発足に伴い、外務大輔に代わって新設された外務次官に横滑り[16]。条約改正交渉における功績で明治20年(1887年)5月に華族の子爵位を与えられた[9]。
明治22年(1889年)12月に第1次山縣内閣に外務大臣として初入閣[19]。後任の第1次松方内閣でも外相に留任し、条約改正交渉に奮闘を続けたが、明治24年(1891年)5月に起きた大津事件で引責辞任を余儀なくされた[20][21]。その後駐ドイツ公使再任を経て、明治27年(1894年)に駐英公使となり、陸奥宗光外相とともに条約改正に尽力し、日英通商航海条約締結により幕末以来の不平等条約による治外法権を撤廃することに成功した[22]。
明治31年(1898年)の第2次山縣内閣でも外務大臣に再任。在任中北清事変の解決のため尽力した[23]。明治39年(1906年)には駐米国特命全権大使に任じられた[9]。
青木周蔵は、最初の駐プロイセン公使在任時代の明治7年(1874年)にプロイセン貴族ヘルマン・フォン・ラーデ=フンケンハーゲン(Hermann von Rhade-Funkenhagen)の娘エリザベート・フォン・ラーデ=フンケンハーゲン(Elisabeth von Rhade-Funkenhagen, 1849年1月13日-1931年4月5日没)と恋に落ちた[3][24][25][26]。彼女の生家のラーデ家(ドイツ語版)は、14世紀まで遡ることができると言われるドイツ・ポンメルン地方の由緒ある貴族である[27][14]。
日本では明治6年(1873年)3月14日から国際結婚が解禁されていたので、外国人と結婚すること自体は問題なかったが[14]、前述の通り周蔵は、周弼の娘照子(テル)と結婚することで婿養子として青木家を相続した身であった。そのためエリザベートと結婚するためには照子との離婚協議が必要であり、慰謝料の額をめぐって紛糾したものの、最終的には照子に慰謝料1000円を支払い[14]、また照子が再婚する際にその結納金を周蔵が全額負担することで、青木家の当主としての立場はそのままに離婚する承諾を得られた[3]。
明治10年(1877年)4月20日、周蔵とエリザベートは、晴れてドイツ・ブレーメンの教会で結婚式を挙げた[14]。以降二人の夫婦生活は死が二人を別つまで続いた[3]。
周蔵は明治12年(1879年)8月22日に彼の子を妊娠していたエリザベートを伴って日本に帰国、同年12月16日に一人娘のハンナ(Hanna、日本名は花子[28])[注釈 1](明治12年12月16日生、昭和28年6月24日没)が誕生した[9]。翌年3月27日にエリザベートは明治天皇に拝謁を許された[14]。
ハンナは成長後、ヘルマン・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク(ドイツ語版)侯爵の次男で在日本ドイツ大使館員だったアレクサンダー・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク伯爵(Alexander Graf von Hatzfeldt zu Trachenberg, 1877年2月10日-1953年11月27日)と結婚し[3][25][30]、シュレージエンにある彼の邸宅で暮らした[24]。
ハンナとアレクサンダーの間には娘が一人出来、日本風の名前としてヒサ(Hissa Gräfin von Hatzfeldt, 1906年2月26日-1985年6月4日)と名付けられた[24]。ヒサは成長後ラインハルト・フォン・ナイペルク(ドイツ語版)伯爵の五男エルヴィン・フォン・ナイペルク伯爵(Erwin Graf von Neipperg, 1897年1月15日-1957年12月5日)と結婚[31]。
ヒサとエルヴィンの間には1男3女ができ[31]、そのうち三女ナタリー(Nathalie, 1948年5月20日生)は、ザルム=ライファーシャイト=ライツ古伯爵家の当主である二クラス・フーゴ・アウグスト・レオポルト・ボニファティウス・フランツ・エウスタキウス・マリア・ザルム=ライファーシャイト=ライツ古伯爵(Niklas Hugo August Leopold Bonifatius Franz Eustachius Maria Altgraf zu Salm-Reifferscheidt-Raitz, 1942年9月20日生-2009年1月2日没)と結婚した[3][32]。
二人の間には2男4女が生まれ、長男のニクラス・マリア・フランツ・カール・エルヴィン・ビンツェンツ・ザルム=ライファーシャイト=ライツ古伯爵(Niklas Maria Franz Karl Erwin Vinzenz Altgraf zu Salm-Reifferscheidt-Raitz, 1972年7月19日生-)が現在の当主であり、青木周蔵の玄孫にあたる。同古伯爵家は、古伯爵(帝国成立前からある伯爵位)の称号通り、1000年以上の歴史を持ち、その起源はロートリンゲン宮中伯ヴィゲリヒに遡れる。歴史的に重要な役割を果たした先祖に1529年にトルコ軍の侵攻からウィーンを防衛することに成功した二クラス・フォン・ザルム(ドイツ語版)伯爵や、マリア・テレジアとの結婚でハプスブルク=ロートリンゲン朝を開いたフランツ1世の曾祖母に当たるロレーヌ公妃クリスティーナ・フォン・ザルムなどがいる[33]。
現当主の祖父にあたる同名のニクラス・ザルム=ライファーシャイト=ライツ古伯爵(1904-1970)がトゥルン・ウント・タクシス侯爵家(ドイツ語版)の侯女イレーネ(Irene)と結婚した関係で、同侯爵家の所有だったオーストリア・リンツに近いシュタイレック城(ドイツ語版)は、1940年から現在まで古伯爵家の所有となっている[33]。
現在シュタイレック城には青木周蔵伝来の重要な日本のコレクションが収蔵されている[33]。現当主二クラスは、高祖父にあたる青木周蔵について「彼は、日本人としては直接的にものを言い過ぎるところがあり、ドイツ人のような日本人だった」「彼は、日本の将来の発展を確信しながら、そのために日本が変わらなければならないことを承知していました。だからこそ、彼は変化を恐れない人でした」と論じている[3]。
青木周蔵が開発に尽力した那須塩原市は、ニクラスの仲介により、平成17年度からリンツ市に中学生海外派遣を行うようになり、2009年(平成21年)からは那須塩原市もオーストリアからの生徒の受け入れを行うようになり、その縁で2016年(平成28年)に両市は姉妹都市提携を行い、2022年(令和4年)に旧青木周蔵那須別邸において両市市長が調印式を行っている[34][35]。 2019年(令和元年)に二クラスと、その母のナタリーの来日があった。二クラスは青木周蔵が創立した那須塩原町の青木小学校の100周年記念行事に出席するために来日したことがあったが、ナタリーの来日は初めてだった。二人は青木小学校や旧青木那須別邸を訪問した。周蔵の曽孫にあたるナタリーは「今回、初めてここに来て先祖の足跡をたどれ、うれしく思っている」という感想を述べた[4]。
周蔵の実子はハンナだけであり、男子はできなかったため、杉孫七郎子爵の三男梅三郎(明治6年10月1日生、昭和16年9月7日没)が周蔵の養子に入って、大正3年(1914年)2月16日の周蔵の死去後、子爵位を継承した[9]。梅三郎はドイツ留学後、後藤新平のもとで鉄道院総裁秘書官を務め、その後南満州鉄道会社に秘書として勤務[12]。梅三郎夫人の文子は福原信蔵陸軍少将の次女[9]。梅三郎の代の昭和前期に青木子爵家の住居は東京市渋谷区緑岡町にあった[12]。
梅三郎の死後に子爵位を継承した梅三郎の長男重夫(明治37年4月17日生、昭和36年6月8日没)は貴族院の子爵議員に当選して務めている[9]。
その長男は周光(昭和11年10月2日生、平成2年12月7日没)、周光の長男は浩光(昭和37年10月13日生)。浩光は医師であり、平成前期にはソニー生命保険株式会社の医務部副医長を務めており、当時の住居は東京都渋谷区神南にあった[28]。
青木周蔵は明治14年(1881年)から那須野が原に青木農場を開いた[21](当時周蔵はドイツ滞在中なので弟の三浦泰輔が手続きを取っている[14])。土地を買い増していき、最終的には1577町1反9畝6歩(1564ヘクタール)を取得。これは那須野が原における農場の中で二番目の大きさである[14]。
周蔵は、明治21年(1888年)より、ここに別邸の洋館の建築を開始した。設計はベルリン工科大学に留学し、帰国後皇居御造営事務局に入って官公庁街建設プロジェクトに参画していた建築家松崎万長男爵[21]。当初は中央の2階建て部分のみだったが、明治41年(1908年)に外交官生活を終えた青木が那須別邸の大規模改築を松崎に依頼し、明治42年に完成した増築により現在の姿となる[21]。青木和子によれば、那須別邸はエリザベートのために作られたという[14]。
館は木造2階建ての部分と平屋建ての部分で構成されており、自然石と玉石を積んだ基礎の上に建設された。ドイツ派の松崎の設計だけに軸組、小屋組、窓の意匠など随所にドイツ建築に多用される工法が見て取れる。外観で特徴的なのは蔦型とうろこ型のスレートであり、とりわけ蔦型は他では見られない特徴的なものである[36]。外観は真っ白で青木夫妻の好みであったという[36]。
現在は「明治の森・黒磯」の一施設として一般公開されている。重要文化財[37]。