青山 忠高(あおやま ただたか)は、江戸時代中期の大名。丹波国篠山藩2代藩主。官位は従五位下・下野守、左衛門佐。青山家宗家16代。
享保19年(1734年)11月5日、丹後国宮津藩主・青山幸秀の七男として江戸で誕生した。
宝暦4年(1754年)8月12日、篠山藩の初代藩主で叔父に当たる青山忠朝の養子となり、12月18日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝暦10年(1760年)に忠朝が死去したため、家督を継いだ。このとき、諱を正幸から忠高と改名している。
明和3年(1766年)4月、藩校・振徳堂を創設し、文武の奨励や教育制度の確立に努めた。さらに農業振興のために治水工事などに尽力したが、洪水や旱魃などの天災が相次ぎ、百姓一揆も起こって藩政は多難だった。天明元年(1781年)6月24日、家督を次男の忠講に譲って隠居し、左衛門佐に遷任する。寛政元年(1789年)4月1日、剃髪して有斎と号した。
文化13年(1816年)8月14日、死去。享年83。