陽侯 令璆(やこ の れいきゅう/りょうぐ)は、奈良時代の貴族。姓は史(毘登)のち忌寸。但馬守・陽侯真身の子。官位は外従五位下・豊後介。名は玲璆とも記される。
天平感宝元年(749年)東大寺大仏建立に際して、令珍ら兄弟3人と共に千貫の貢銭を行い、令璆は従八位上から外従五位下に叙せられた[1]。
天平宝字3年(759年)越後守に任ぜられる。天平宝字4年(760年)渤海使の高南申を渤海に送り届けて帰国し、内位の従五位下に叙せられる[2]。天平宝字7年(763年) 内匠助。
その後、神護景雲2年(768年)一族64名が史(毘登)姓から忌寸姓に改姓した際、弟の人麻呂が一族の代表とされているなど[3]、令璆は兄たちの没後に存命に関わらず一族を代表する立場になく、加えて位階を剥奪された形跡があることから、淳仁朝から称徳朝にかけて政争に巻き込まれたか。
宝亀9年(778年) 外従五位下に復され、宝亀11年(780年)尾張介、天応元年(781年)尾張守、天応2年(782年)豊後介と光仁朝末から桓武朝初頭にかけて地方官を歴任した。
『続日本紀』による。