金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西[1][2]。
長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。
1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し[3][4]、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。満州国の新京に開設された建国大学でも講師として芸術論を講じた。1949年、新潟大学教授となる。1956年「絵画における線の研究」で文学博士(早稲田大学)。
島木赤彦に師事し、アララギ派の歌人としても活躍した[5]。1958年、東京都武蔵野市の自宅で死去した。生前の蔵書は「金原文庫」として武蔵野美大図書館に所蔵されている。
2019年に10月14日から11月9日まで「武蔵野美術大学90周年記念・ 帝国美術学校の誕生―金原省吾とその同志たち」が開催された[6]。
. NCID BA44030716 . NCID BA52679886 . NCID BA81837663