野尻 精一(のじり せいいち、1860年4月3日(安政7年3月13日[1]) - 1932年(昭和7年)3月14日[2])は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、文部官僚。
播磨国姫路藩士の家に生まれる[1]。飾磨県小学校教員を経て、1882年(明治15年)に東京師範学校(のちの東京高等師範学校)中学師範学科を卒業した[1]。文部省御用掛を経て、1886年(明治19年)よりドイツに留学し、プロイセン官立ノイチェルレ師範学校、ベルリン大学哲学教育学科、ライプツィヒ大学哲学教育学科で学んだ[1]。1889年(明治22年)に帰国した後は高等師範学校教諭・帝国大学文科大学講師を務めた[1]。その後、高等師範学校教授、東京府尋常師範学校校長、文部省視学官、普通学務局第一課長、図書審査官、普通学務局長事務取扱を歴任した[1]。1909年(明治42年)、奈良女子高等師範学校校長に就任し、1919年(大正8年)まで務めた[3]。
退官後は共立女子職業学校(現在の共立女子大学)理事を務めた[3]。