貴州省 (中華民国)

中華民国 貴州省
1912年 - 1949年
貴州省の位置
貴州省の位置
貴州省の位置
簡体字 贵州
繁体字 貴州
拼音 Gùizhōu
カタカナ転記 グイヂョウ
国家 中華民国
行政級別
政府所在地 貴陽県1912-1941
貴陽市1941-1949
建置 1912年
消滅 1949年
面積
- 総面積 170,196 km²
人口

貴州省(きしゅうしょう)は、かつて中華民国に存在した。現在の中華人民共和国貴州省に相当する。

管轄区域

東は湖南省、北は四川省、西は西康省及び雲南省に接し、南は広西省に接していた。

行政沿革

1911年宣統3年)、辛亥革命が勃発すると11月4日に貴州軍政府が貴陽に成立、軍政府は都督、行政院、枢密院により構成され、都督が軍政及び行政長官の実務長官、枢密院が軍事計画の立案と民政指導を行う体制が採用された。1912年民国元年)6月、民政長官として民政長を設置、1914年(民国3年)には民政長を巡按使、1916年7月には省長と改称された。

1927年(民国16年)2月21日、貴州省政務委員会が設置され武漢国民政府に帰属したが、4月21日に上海クーデターが発生すると、6月3日に南京国民政府により貴州省政府委員会が設置され両行政機構が一時期並存することとなった。1929年10月2日、国民政府は政務委員会を解体、新たに貴州省政府に改編している。1936年(民国25年)6月、行政督察区が施行されると全省に8区が設置されている。1949年(民国38年)11月15日、共産党勢力により省会の貴陽市が「解放」されると、中華民国は実効支配権を喪失している。

省会

省会は当初貴陽県に設置されたが、1941年(民国30年)以降は貴陽市に移された。

歴代省長

氏名 就任日 退任日
1 楊藎誠 1912年3月 -
2 唐継堯 1912年4月 -
3 竜覲光 1916年2月 -
4 劉顕世 1916年7月 -
5 盧燾 1921年1月 -
6 袁祖銘 1922年4月 -
7 唐継堯 1923年3月 -
8 袁祖銘 1925年1月 -
9 王天培 1925年2月 -
10 周西成 1926年6月 -
11 毛光翔 1929年10月 -
12 王家烈 1932年3月 -
13 猶国才 1932年12月 -
14 王家烈 1933年4月 -
15 呉忠信 1935年4月 -
16 顧祝同 1936年8月 -
17 薛岳 1937年11月 -
18 孫希文 1937年9月 -
19 呉鼎昌 1937年11月 -
20 楊森 1945年1月 -
21 谷正倫 1948年4月 -

行政区画

道制

民国建国当初は清代の道は廃止されたが、1913年(民国2年)4月、北京政府は黔中道、黔東道、黔西道の3道を設置、観察使が任命されたが、1914年6月には黔中道、鎮遠道、貴西道と改称され道尹が設置されている。1915年(民国4年)12月に始まった護国戦争期間中は貴州省は独立を宣言、道尹は刺史と改称されているが、戦争が終結した1916年(民国5年)8月には再び道尹と改称されている[1]。1920年、黔中道が廃止となり省直轄に、1923年(民国12年)には鎮遠道、貴西道の2道が廃止とされ道制は消滅した。

県級行政区画

中華人民共和国成立直前の管轄行政区画は下記の1市79県。(50音順)

行政督察区

脚注

  1. ^ 『政府広報』233号 1916年8月27日

関連項目


前の行政区画
雲貴総督
貴州省歴史的地名
1912年 - 1949年
次の行政区画
貴州省

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