豊川空襲(とよかわくうしゅう)は、第二次世界大戦末期アメリカ軍により行われた愛知県豊川市に対する空襲。
当時、豊川市には軍需工場豊川海軍工廠があり、本土空襲が始まってから豊川市及び近隣地域では度々空襲があった。そのうち1945年(昭和20年)8月7日の豊川海軍工廠への空襲が最大の被害であった。
愛知県豊川市穂ノ原には1939年(昭和14年)12月に開庁した軍需工場の豊川海軍工廠があり、機銃や弾丸製造では当時日本最大の工廠で[1]、最盛期には6万人以上の人が24時間生産体制で働いていた[2]。
海軍工廠防衛のため高角砲を備えた砲台を1943年(昭和18年)11月に宝飯郡御津町(現豊川市)の大恩寺山(現名称御津山)に大恩寺山砲台を設けたほか、牛久保(現四ツ谷町近辺)に豊川砲台を設けていた[3]。1944年(昭和19年)秋ごろから八名郡三上村(現豊川市)の権現山に砲台の建設に着手した[4]。
本土空襲が本格化した1945年(昭和20年)1月に宝飯郡御津町(現豊川市御津町)で空襲があって以降、海軍⼯廠及び近隣地域にも度々空襲があり死者も出ていた。
1945年(昭和20年)8月7日午前10時過ぎ、豊川海軍工廠にアメリカ軍機(B-29)の大編隊が知多半島方向より飛来し大量の爆弾が投下された。空襲は30分ほど続き被害は2,500人以上の死者とその数倍の負傷者が出て海軍工廠施設のほとんどが破壊された。また、海軍工廠周辺も被弾し一般市民にも空襲被害が及んだ。
1944年(昭和19年)11月ころ、本土空襲が始まると上空を通過する敵機が目撃されるようになる[5]。
1945年(昭和20年)1月以降、海軍工廠及び周辺への空襲が発生し始める。
1945年(昭和20年)
目標上空へ到達した機数125機、そのうち目標へ爆撃したのは124機、爆撃の時間26分間、投下した500ポンド爆弾(250キロ爆弾)3,256発[9]。
目標周辺での日本戦闘機による迎撃はなく、対空砲火により損害を受けたのは目標に到達したB-29爆撃機125機中21機であるが作戦への影響は無かった[15]。
尚、第1目標の豊川海軍工廠へ目視爆撃が出来なかった場合、第2目標は横須賀の航空機工場攻撃が予定されていた[13]。その場合の護衛としてP-51戦闘機52機が伊豆大島上空で待機、豊川海軍工廠への爆撃が成功したため代替任務に移行、相模湾周辺の送電設備、鉄道施設、及び、横須賀の航空機工場周辺海域のレーダー施設・貨物船などを攻撃した[15][20]。
主に用いた文献