谷口 香嶠(たにぐち こうきょう、元治元年8月16日(1864年9月16日) - 大正4年(1915年)11月9日)は明治時代から大正時代の日本画家。
幸野楳嶺の弟子で、菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれた。
京都宮川筋五丁目(現・東山区)で、辻久二郎と縫子夫妻三男一女のうち2子として生まれる[1]。旧姓は辻、本名は雅秀。幼名は槌之助。別号は多く、後素斎、羅浮山人、藤原雅秀など。実家は日根野の豪商で、代々木綿問屋を生業にしていた。明治4年(1871年)伏見区宝塔寺内自得院主・小林三光に預けられ、漢籍を中心とした教育を受ける。明治11年(1878年)東京に出て医学を学ぶが、翌年生家に戻り家業を手伝いながら、『芥子園画伝』や『漢画早学』で絵を独学する。明治15年(1882年)頃、谷口家の養嗣子となる。
明治16年(1883年)8月に京都の幸野楳嶺に入門し、翌年2月に京都府画学校北宗画科に入学。その傍ら、三国幽眠に漢籍を学ぶ。明治21年(1888年)九鬼隆一の古社寺宝物取調べに参加し、多くの古画に接したことで本格的に古画の研究と模写に取り組むようになる。更に清水六兵衛宅に寄寓して陶画を学び、工芸図案への関心も芽生える。明治21年(1888年)『美術叢誌』刊行に尽力。明治23年(1890年)第3回内国勧業博覧会で「雪の佐野荘(鉢木)」で三等妙技賞。翌24年(1891年)京都私立日本青年絵画共進会で「経政遇怪」で2等3席。同年、田中治兵衛が出版した『工芸図鑑 一』の挿絵を手掛け[2]、著書『光琳画譜』を刊行する。明治26年(1893年)には京都美術学校教諭となり、翌年改称された京都市美術工芸学校の教諭に就任した。明治28年(1895年)の第4回内国勧業博覧会において「拈華微笑」が3等1席を得る。同年、竹内栖鳳、菊池芳文、山元春挙と共に『雍府画帖』を出版する。
明治33年(1900年)のパリ万国博覧会に出品した「驟雨」が銅牌を受賞、これ以降、多くの博覧会や共進会において受賞をかさねている。明治35年(1902年)から翌年にかけてトリノ万国装飾博覧会視察の視察のため赴いている。明治40年(1907年)に開催された第1回文展には「山嫗(残月山姥図)」を出品3等賞を得て(その後清水寺に奉納)、第4回・第5回文展では審査員を務めている。明治42年(1909年)から同45年(1912年まで)京都市立絵画専門学校の教授となり、退官後も亡くなるまで嘱託教授を勤め多くの後進を育てている。しかし、渡欧中に肺を患い、晩年は病気がちだった。墓は深草の宝塔寺。
香嶠はなかでも有職故実に長けており、京都では数少ない歴史画の第一人者として認められる存在だった。一方で、粉本を模写するだけの空虚な伝統を批判し、西洋の緻密な描法を取り入れ写実を重んじ、工芸図案家としても優れる。弟子に猪飼嘯谷、野長瀬晩花、伊藤小坡、津田青楓、水越松南など。