諏訪 忠粛(すわ ただかた)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃国高島藩7代藩主。官位は従五位下・伊勢守、因幡守[1]。
明和5年(1768年)4月4日、6代藩主・諏訪忠厚の長男として誕生した。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかしこの騒動で父が幕府より強制隠居を命じられたため、天明元年12月11日(1782年)に跡を継ぐこととなった。
天明5年(1785年)からは坂本養川を登用して、検地や新田開発、税制改革、鋸製造業の奨励などを中心とした藩政改革を行い、ある程度の成果を収めた。享和3年(1803年)には藩校・長善館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。文化13年(1816年)11月21日、長男の忠恕に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)6月28日に死去した。享年55。
父母
正室
側室
子女
有員 - (13代略) - 有信 - 頼信 - 為信 - 為仲 - 為継 - 為次 - 為貞 - 敦貞 - 貞方 - 貞光 - 敦光 - 敦忠 - 敦信 - 信重 - 信時 - 盛信 - 盛重 - 宗経 - 頼重(照雲) - 時継 - 頼継 - 信継 - 直頼 - 信有 - 有継 - 頼満(伊予守) - 信満 - 政満 - 頼満(安芸守) - 頼隆 - 頼重 - (勝頼) - 頼豊 - 頼忠 -
(藩主諏訪家)頼忠 - 頼水 - 忠恒 - 忠晴 - 忠虎 - 忠林 - 忠厚 - 忠粛 - 忠恕 - 忠誠 - 忠礼 - 忠誠(再襲) - 忠元 - 忠弘 - 忠則 -
(大祝諏訪家)頼忠 - 頼広 - 頼寛 - 頼隆 - 頼基 - 頼超 - 頼央 - 頼紀 - 頼隈 - 頼本 - 頼啓 - 頼壽 - 頼武 - 頼固 - 頼宣 - 弘