西新宿事件(にししんじゅくじけん)とは2008年3月に発生した殺人事件。
解散した暴走族「関東連合」のOBと親交を持つ被害者の会社員男性(以下、「K」)が集団リンチに遭い殺害された事件で、犯人らは逮捕されていないが、半グレ集団による抗争の一つと見られている。
概要
経緯
未成年による暴走族であった時代の関東連合は多数の非行グループとの抗争を繰り返し、そのうち、不良グループ「新宿ジャックス」のメンバーであるXとその兄をトップとする反関東連合グループとも対立していた。当事者らの成人後、半グレ集団となった両者の対立関係は継続していたが、2005年あたりからそれがエスカレートし、再び抗争という形になっていった
2008年3月初旬に広尾のちゃんこ鍋屋で関東連合メンバー数名が被害者Kとともに食事をして店を出た後に、関東連合メンバー数名と反関東連合グループの参謀格Tが所属している山口組秋良連合会組員数名といがみ合いが始まったが、Kは関東連合サイドに立って山口組秋良連合会組員1名を素手で倒し、山口組秋良連合会組員全員はその場から退散した。
その直後に関東連合メンバーの石元太一は六本木の牛丼屋で反関東連合グループのトップである弟Xと遭遇し、Kに電話をかけたが、そこで電話をXに取り上げられて、XはKに関東連合に宣戦布告をする旨を伝え、Xは石元の携帯電話を奪った。
同年3月15日夜にKは西麻布のカラオケラウンジのVIPルームで関東連合トップのM(第22代ブラックエンペラー総長)の誕生日パーティーに呼ばれ、広尾のちゃんこ鍋屋でのKの武勇伝で盛り上がった。解散したのは翌3月16日午前4時頃であった。
殺人事件
3月16日午前4時過ぎにKが実家である西新宿の路上に車を停めて降りたところ、待ち伏せしていた4~5名ほどの目出し帽を被った集団に金属バットのようなもので襲われた。襲撃者たちは警察が到着する頃には逃亡していた。Kは3月21日に病院で死亡した(享年32歳)[12]。
この殺人事件は警察による捜査では犯人を特定できずに未解決事件のままである。Kは関東連合と親しかったものの関東連合の正規のメンバーではなかった。しかし、Kの通夜の席でMがKの遺体を前に「絶対に返しを取ってやりますから」と復讐を誓うなどしており、関東連合にとっては前述の経緯から反関東連合グループが関東連合に対する攻撃をした事件と判断され、反関東連合グループに報復するまで絶対に引き下がることのできない抗争となった。
なお、関東連合のメンバーである柴田大輔は2015年6月19日のブログで、関東連合界隈に詳しい瓜田純士は著書で、反関東連合グループのメンバーであり打越スペクター元リーダーS(2010年10月に振り込め詐欺集団仲間を強盗致死して2013年11月指名手配されて2015年2月に逮捕され、2016年9月に一審無期懲役判決、2018年4月に二審懲役28年判決)がこの事件に関与しているとほのめかす記述をそれぞれしている[15]。
その後
K殺人事件を機に関東連合はタブーとされていた暴力団化を急激に推し進め、関東連合と反関東連合グループとの抗争が激化していった。
2012年9月2日に関東連合トップのMが首謀して起こした六本木クラブ襲撃事件は、対象をXと誤認して無関係の人間を殺した人違い殺人であったが(裁判では傷害致死として訴追)、この事件の報復として起こされたとされている。
被害者
Kは反関東連合グループ「新宿ジャックス」のメンバーでありトップ連中の先輩であった一方で、関東連合のトップMたちとも交友があり、構成員ではないが弘道会系の組織と関わりを持っていた[12]。また、多くの芸能人にも親交があった[12]。韓国食品の輸入を手掛ける他、新宿歌舞伎町等にビルを所有し、女性用サウナを経営していた。
Kは総合格闘家顔負けの鍛え上げられた肉体を持っており、武勇伝は多く存在したほど、凶暴で恐れられていた。またKは自分の部屋を『グラップラー刃牙』などの少年漫画で埋め尽くすほどの漫画愛好家であり、「テッペン(天下)を取った奴にししか見えない景色があるんだよ」と漫画に出てくるようなセリフを平気で口にしていたという。
関東連合は反関東連合グループと対立状態にあったが、Kは関東連合幹部でAV監督の松嶋クロスの結婚式にも出席する一方で闇金融を経営する反関東連合グループの参謀格Tの実兄と兄弟分であるなど、両グループとも適度に友好関係を保とうとし、どういうポジションなのかはっきりしなかった。
その他
- 石元太一は著書で「関東連合の先輩ではないKとの接点はほとんどなく、俺とは遊んだり連絡をとりあったりするほど関係が深くなく、誰かと一緒にいた時に顔を合わせれば挨拶する程度の仲」と述べて、六本木クラブ襲撃事件の動機に西新宿事件への報復があったとする検察の主張を否定している。その一方で石元はKの携帯電話番号を知っていたこと、およびKの葬儀に出席したことは著書でも認めている。
出典
関連書籍
関連項目