藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。
阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。
早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。帰国後は1923年早稲田大学教授、1925年東京帝国大学教授、1928年台北帝国大学教授を歴任した。1929年、死去。
著書に『中等教育東洋史』、『東西交渉史の研究』などがある。所蔵の漢籍1700余部は、没後東洋文庫に寄贈され、「藤田文庫」として貴重な資料となっている。
その生涯は、遺著である『東西交渉史の研究 南海篇』(荻原星文館、1943年)に収録された小柳司気太「文学博士藤田豊八君略伝」(1~17頁)に詳しく、同書の笹川臨風「追憶」19~21頁、幣原坦「藤田博士の想ひ出」23~30頁、羅振玉「藤田博士墓表」からも知ることができる。
伝記には、江上波夫「藤田豊八」『東洋学の系譜 第2集』14~32頁(大修館書店、1994年)があり、座談会での関係者の回想に、『東方学回想 Ⅰ 学問の思い出(1)』(刀水書房、2000年)がある。