藤原 隆長(ふじわら の たかなが)は、平安時代末期の貴族。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の三男。官位は正四位下・左近衛権中将。
経歴
仁平元年(1151年)2月21日に侍従に任じられ[1]、同年5月26日に右少将[2]、7月24日に左少将に転任[2]、仁平2年(1152年)正月28日に従四位下に叙され[2]、同年9月9日に左近衛権中将に転任[3]、仁平ら3年(1153年)正月5日に正四位下に叙され(高陽院御給、二階、元従四位下)[3]、同月21日に紀伊権守を兼任した[4]。仁平2年、鳥羽法皇の五十歳の御賀に当たり、藤原実定と共に青海波を舞ったが、その様子を見物した祖父・忠実から舞の未熟さを見咎められ、師匠である狛光行と交替させられた逸話が『古事談』に見える(隆長に代わった光行の舞も隆長のそれと大差なく、舞の正しい伝承が行われていないことを知った忠実が、自ら光行に指導したとある)。
保元元年(1156年)の保元の乱において父・頼長が敗死すると、兄弟達と共に一旦宇治の忠実の許に身を寄せるが、7月27日に左権中将を解官され、朝命によって8月3日に伊豆国へ配流された。詳細な年代は不明ながら、その後は都に帰還することなく配所で没した。
脚注
- ^ 『台記』
- ^ a b c 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
- ^ a b 『兵範記』
- ^ 『山槐記』
出典