藤原 忠房(ふじわら の ただふさ)は、平安時代前期の貴族・舞楽家・歌人。藤原京家、右京大夫・藤原興嗣の子。官位は従四位上・右京大夫。中古三十六歌仙の一人。
仁和3年(887年)信濃掾に任ぜられると、周防権掾・播磨少掾と光孝朝から宇多朝にかけて地方官を歴任する。
宇多朝末の寛平9年(897年)正月に左兵衛権少尉と武官に転じると、同年7月の醍醐天皇即位に伴い六位蔵人兼左近衛将監に任ぜられる。昌泰4年(901年)従五位下に叙爵した後も、左兵衛権佐・左近衛少将と醍醐朝前半は武官を歴任した。
延喜16年(916年)正五位下・信濃権守に叙任され再び地方官に転じると、延喜20年(920年)大和守と、醍醐朝後半は一転して地方官を歴任。この間、延喜22年(922年)従四位下に叙せられると、延長3年(925年)には治国の功労により従四位上に昇叙されている。同年山城守。
延長5年(927年)右京大夫として京官に復すが、翌延長6年12月1日(929年1月15日)卒去。
一門には雅楽に秀でた者が多く、忠房も琵琶の名手であった父の興嗣よりその才を受け継ぎ、歌舞や管絃の分野において活躍した。忠房が作曲し敦実親王が振付を施した胡蝶楽や延喜楽は、高麗楽の代表的な作品として知られる。延喜16年(916年)の宇多法皇五十御賀において、笙の名手であった参議・藤原保忠とともに楽行事を務めている。
また歌人としての名声も高く、延喜6年(906年)に開催された「日本紀竟宴和歌」や、延喜21年(921年)の「宇多法皇春日行幸名所和歌」などに出詠するとともに、同じく延喜21年(921年)の「京極御息所歌合」では判者を務めた。延喜13年(913年)3月に宇多法皇が主宰した「亭子院歌合」においても、天皇により判者に指名されたが、恐れ多いとして断り当日参加しなかった。
中古三十六歌仙の一人として知られ、勅撰和歌集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)に17首が入首している[1]。
『中古歌仙三十六人伝』による。
『尊卑分脈』による。