蕭 淵明(しょう えんめい、? - 556年)は、南朝梁の皇帝。『梁書』では歴代皇帝の伝である本紀は立てられていない。皇帝としての諡号は閔帝(びんてい)であるが、北斉より贈られたものであることから、即位前の爵位より貞陽侯と呼ぶことも多い。唐代に編纂された史書「南史」では、高祖李淵の諱である「淵」の字を取って諱を単に「明」と表記されている。
初代皇帝武帝の兄の長沙王蕭懿の五男で、先代皇帝元帝の従兄にあたる。貞陽侯に封じられていたが、侯景が東魏から南朝梁に降伏してきた際、侯景とともに東魏を攻撃するために派遣された。しかし蕭淵明は味方が優勢になったときは「臨機制変」を唱えて戦わず味方の略奪を放置し、侯景の警告を無視して敵の誘い込みにはまんまと引っかかるなどして醜態をさらして敗北をし、蕭淵明は東魏の捕虜となった。ただし殺害されることはなく、官位を与えられて抑留され続けた。
その後、侯景の乱により南朝梁は乱れ、侯景は戦死し、侯景を倒した元帝もまた西魏の援助を受けた蕭詧に殺された。ここにおいて、元帝の配下の王僧弁と陳霸先は蕭方智を擁立するが、東魏に代わって興った北斉は、西魏から代わった北周に対抗するために、抑留していた蕭淵明を自らの軍とともに皇帝として南朝梁に送り込んだ。兵力に押された王僧弁は彼を皇帝として迎え入れるが、それを認めようとしない陳霸先と対立し、結局王僧弁は陳霸先に攻め殺されてしまう。
北斉軍も既に帰還しており、後ろ盾を失った閔帝は、権力を握った陳霸先により間もなく皇位を廃されて建安公とされ、再び蕭方智が皇帝につけられた。その後、陳霸先は蕭淵明を北斉に送り返そうとしたが、その直前に病没した。
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