蕭 懿(しょう い、? - 永元2年10月13日[1](500年11月19日))は、南朝斉の宗室。字は元達。南朝梁の武帝蕭衍の長兄にあたる。次弟に蕭敷がいたが早世した。後に三弟の蕭衍によって、長沙宣武王を追贈された。
略歴
蕭順之の長男として生まれた。幼少より評判がよく、最初に安南邵陵王行参軍になり、臨湘県侯の爵位を受け継いだ。太子舎人・太子洗馬・建安王友を遷任して、晋陵郡太守に就くと公正な裁判をして善政を行い、中書侍郎に任じられた。
永明11年(493年)、持節・冠軍将軍・都督梁南北秦沙四州諸軍事・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられる。
建武2年(495年)、南伐を起こした北魏の別働隊を率いた元英に漢中に攻め入られる。蕭懿は迎撃に軍を出すが打ち破られ、遂には南鄭を囲まれるも、自ら城を固守し、何とか元英が撤退すると楊元秀を遣わして、逆に北魏の歴城・皋蘭・駱谷・仇池等6つの城を攻め落とした。その後、征虜将軍になり300戸を加増され、都督益寧二州諸軍事・益州刺史に遷任した。
永元元年(499年)、皇帝蕭宝巻(東昏侯)は暗君で、その臣下達は権力闘争に明け暮れた。この朝廷の混乱を重く見た蕭衍は、益州刺史を解任されて行郢州事になっていた蕭懿に張弘策を遣わせて、混乱に巻き込まれないように朝廷から距離を置き、機を待つよう献策したが、蕭懿は従わなかった。
永元2年(500年)、裴叔業が豫州で謀反を起こすと、持節・征虜将軍・都督豫州諸軍事・豫州刺史に任じられ、歴陽郡・南譙郡の太守を領し、裴叔業の討伐を命じられる。裴叔業はこれに恐れ、北魏に降ってしまう。
しばらくして崔慧景が叛乱を起こし、蕭宝玄を奉じて遂には都に攻め入り、台城を囲んだ。朝廷は混乱し、蕭懿に崔慧景討伐を命じる。小峴にいた蕭懿は、そのとき食事をとっていたが箸を投げ捨て、精鋭3千人を率いて城の救援に向かった。この時、蕭懿のもとに蕭衍から使者として虞安福が送られ、崔慧景を打ち破った後そのまま兵を率いて宮廷に入り、蕭宝巻を廃してしまうよう献策され、周りからも勧められたが、蕭懿は従わなかった。蕭懿は崔慧景が派遣した崔覚を撃破し、勝利の勢いに乗じて進み、崔慧景を打ち破った。この功により尚書令・都督征討水陸諸軍事に任じられ、2千5百戸を加増された。
蕭懿の功に並ぶ者がいなくなると、茹法珍らはこれを恐れ、蕭懿が謀反を起こそうとしていると蕭宝巻に讒言し、蕭宝巻もこれを信じた。このことを知った徐曜甫から襄陽に逃げるよう勧められたが、蕭懿は拒否し、結局死を賜った。
蕭懿の死を聞いて挙兵した蕭衍により蕭宝巻が廃され、和帝が立つと、蕭懿には侍中・中書監・司徒が追贈され、宣徳太后臨朝のもと改めて太傅が贈られた。天監元年(502年)、蕭衍が禅譲により梁を建てると丞相を追崇され、長沙王に追封されて「宣武」の諡を贈られた。
子女
伝記資料
- 『梁書』巻23 列伝第17
- 『南史』巻51 列伝第41
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
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脚注
- ^ 『南斉書』巻7, 東昏侯紀 永元二年十月己卯条による。