第二新国劇(だいにしんこくげき)とは、大正時代に存在した日本の剣劇劇団[1][2]。創立者は倉橋仙太郎。役者では原健策、大河内傳次郎、スタッフには社会運動家の難波英夫らがいた。新民衆劇一派、新民衆劇団、新民衆座とも呼ばれる。
「新民衆劇(ピープルスドラマ)」とは坪内逍遥が提唱する、劇を社会的に利用する演劇運動[3]。新民衆劇学校出版部の『新民衆劇脚本集. 第1編』の巻頭には、作家で『民衆劇論』の著者であるロマン・ロランの次のような文が引用されている。「惰弱なお上品に対抗して集合的生活を主張して一種族の更生を準備し且つ促進せんとする男性的の頑丈な芸術、この民衆劇に対する吾々の熱烈な信仰は吾々の青年時代の最も純潔な且つ最も健全な力の一つである」[4]
1923年(大正12年)、澤田正二郎とともに新国劇を創立した倉橋仙太郎が病気のため退団し[5]、移り住んだ大大阪府南河内郡に「プロレタリアの新文化村」を創設[6]。(場所は野田村西野(現在の大阪府堺市西野)[6]または瓢箪山[7])。入居者には、元・大阪時事新報社社会部長で社会運動家の難波英夫や劇作家の竹田敏太郎、津田和也、藤本房次郎らがいた[6]。倉橋は2万円を投じて[5]自宅に脚本科、俳優養成科、農村娯楽研究科の3学科からなる[5]新民衆劇学校(新国劇附属民衆劇学校[5])を開設[6]。原健策(原健作)、大河内傳次郎(正親町勇、室町次郎)、金井修(金尾修)、樋口十一、森敏治、倉橋信雄、金剛麗子らが研究生として入り、基本的な発声法、演技術、能・狂言・仕舞などを学んだ[6]。卒業生で新民衆劇一派を結成[6](のちに第二新国劇に改称)。旗揚げ公演は1924年2月に奈良県五条町で『白痴殺し』(作:津田和也)と『天誅組』(作・西光万吉)を上演した[6]。その後、水平社や農民組合の支援の下、関西各地を巡演した[6]。
1925年7月、浅草観音劇場での盆興行が一週間で打ち切りになり、さらに原健策、大河内傳次郎らが退団したため解散した[6]。