秋月 種美(あきづき たねみつ[1] / たねみ)は、江戸時代中期の大名。日向国高鍋藩6代藩主。次男に出羽国米沢藩主となった上杉鷹山がいる[1]。
享保3年(1718年)、5代藩主・秋月種弘の長男として誕生した。庶長子ではあったが世子となり、享保17年(1732年)9月28日、8代将軍徳川吉宗に御目見する。同年12月16日、従五位下・佐渡守に叙任する。享保19年(1734年)12月7日、種弘の隠居により跡を継いだ。
宝暦3年(1753年)に父が死去するまでは実権はなかった。父の死後に親政を行なうが、種美の治績は文武を奨励し、藩士子弟の遊学を許して広く人材を求め、藩の軍備を充実させると同時に、民政においても代官には人格ある学者を起用するなど、人事制度に大きな治績を残している。種美は「国家の至宝は人材に有り」と述べているが、その好学と人材重視の姿勢は長男の種茂(7代藩主)、次男の鷹山にも受け継がれ、二人がともに名君として大成する土台となった。
宝暦10年(1760年)7月8日、種茂に家督を譲って江戸藩邸に隠居する。
天明7年(1787年)9月25日、死去。享年70。死因は悪性腫瘍だったとされ、鷹山の看病を受けたという[2]。
父母
正室
子女