相川町(あいかわまち)は、かつて新潟県佐渡郡におかれていた町。江戸時代には佐渡金山(相川金銀山)で賑わい、佐渡奉行所がおかれる佐渡国の中心であった。明治以降は鉱山町としての性格に加え、佐渡観光の中心地として栄えた。
2004年(平成16年)3月1日、佐渡全域での合併により佐渡市が発足し、相川町は廃止された。2000年国勢調査における佐和田町への通勤率は11.6%。
廃止時点での町域は、佐渡の北西海岸にそって細長く延びていた。内陸は大佐渡山地で、海岸近くまで山が迫るが、南端は比較的なだらかな地形である。
町役場が置かれていた相川の市街は町域南西部、佐渡金山(相川金山)の麓に位置しており、海と山に挟まれた狭隘な地形に市街地が広がる。海成段丘の地形となっており[2]、海岸沿いの狭い低地には「下町」、段丘面上には「上町」の町割りが近世より形成され、現在も骨格が残っているほか[3][4]、段丘崖には石段が多く見られる[3][5]。
相川は元々はさびしい寒村であったとされるが[6]、近世以降鉱山町として発展した。1601年(慶長6年)に初期の鉱山集落である上相川が成立し[7]、1603年(慶長8年)からは佐渡代官(のちの佐渡奉行)に任命された大久保長安によって上町において奉行所を中心とした計画的な町建てが進められた[7][8]。下町の開発はやや遅れて寛永年間(1624~1643年)に行われ[6]、海を埋め立てた土地に表通りと裏通りを持つ市街地が形成された[9]。なお、上相川は金銀山の衰退と共に人口が急減し、明治期には住む人がいなくなった[10]。
1876年2月、相川地方の寝部屋の風習、若衆仲間の慣習、結願・功徳と称し石塔を立てることなどが禁止された[11]。
各地から人が集まったため17世紀前半の最盛期には相川の人口は5万人ほどと言われており[12][注 1]、これは当時の国内有数の都市である長崎に匹敵する[14]。なお、金山開発に伴い佐渡島全体が江戸幕府の天領となっている。
近代以降も採掘は続けられ、大間港の築港、北沢浮遊選鉱場、トロッコをはじめとする近代鉱業施設の導入が行われた。しかし採掘量は減少し、1950年代前半には大規模人員縮小により家族を含め約2,000人が島を出ることとなった[14]。1970年からは「史跡佐渡金山」として観光へと転換し、1989年に休山となった[7]。
相川は近世から近代にかけて、上町を中心に佐渡奉行所、新潟県佐渡支庁といった国や県の出先機関が置かれた官公庁の街であり[7]、現在も新潟県の佐渡地域振興事務局の本庁が置かれている。昭和半ばには国中地区への移転構想もあったが、1973年(昭和48年)発表の政府の「公有地造成促進政策」の影響を受けて下町の海岸部の埋立て事業が行われ、上町にあった官公庁の多くが昭和末期から平成にかけて造成されたこの土地に移転した[7][6]。
伝統産業として無名異焼があった。
昭和30年代には映画館の相川劇場があった[15]。
町内に国道は通っていない。
佐渡奉行所跡ほかの鉱山関連遺跡が「佐渡金銀山遺跡」の名称で文化財保護法による国の史跡に指定[16]。また、相川地区の630.1ヘクタールが「佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観」の名称で同法による国の重要文化的景観として選定されている[17]。
佐渡観光の中心地となっており、佐渡観光客の大半が町に宿泊するといわれている[13]。
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