田村 虎蔵(たむら とらぞう、1873年5月24日 - 1943年11月7日)は、日本の音楽教育家、作曲家。
鳥取県岩美郡馬場村(現・岩美町馬場)に田村重蔵の6人兄弟の末子として出生[1][2]。体が非常に強健であったことから虎蔵と命名されたとされる[2]。
蒲生小学校、鳥取高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)を経て[2]、1892年鳥取県尋常師範学校を卒業[1]。卒業後は因幡高等小学校(現・鳥取市立久松小学校)に赴任するが[1]、同年9月に東京音楽学校に進学[1]。1895年同校を卒業[1]。兵庫県尋常師範学校を経て[1]、1899年東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭[1]。
言文一致唱歌を提唱し[1]、納所弁次郎らと「幼年唱歌」(1900年)「尋常小学唱歌」などを編集。1922年6月、文部省より海外留学を命ぜられ、西洋に渡り音楽教育事情を研究[2]。1924年2月10日帰国[2]。帰国後は、東京市音楽担当視学となる[2]。弟子に堀内敬三がいる[要出典]。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールなどで審査員を務めた[3]。
成立年未詳