田中 克彦(たなか かつひこ、1934年6月3日 - )は、日本の言語学者。専門は社会言語学。モンゴル研究も行う。言語と国家の関係を研究。国際言語として日本語の漢字を批判。一橋大学名誉教授。2009年モンゴル国北極星勲章受章。著書に『言語からみた民族と国家』(1978年)、『名前と人間』(1996年)、『ことばとは何か』(2004年)など。
兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)生まれ。兵庫県立八鹿高等学校を経て、1953年、東京都立戸山高等学校卒業。1956年11月、草創期の言語学研究会運営委員となる。1957年、東京外国語大学外国語学部第六部第二類(モンゴル語学)を卒業。同年東京外国語大学言語学研究室副手となる。1963年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。大学在学時には、亀井孝の指導を受けた。後に(2000年)「ソビエト・エトノス科学論:その動機と展開」で一橋大学より博士(社会学)の学位を取得。
卒業後は1963年より東京外国語大学外国語学部モンゴル語学科専任講師。1964年から1966年にかけてフンボルト財団研究員としてボン大学中央アジア言語文化研究所に留学し、ワルター・ハイシッヒに師事した。帰国後の1967年より東京外国語大学助教授、1972年岡山大学法文学部助教授。1976年より一橋大学社会学部助教授、1978年に同教授、1996年に同大大学院言語社会研究科教授。1998年に一橋大学を定年退官し、同大名誉教授。その後は中京大学社会学部教授となって教鞭をとった。日本言語政策学会理事も務める。
はじめモンゴルの社会主義革命を支持する立場からの著述を行っていたが、その後左翼的立場からする言語論を多く執筆、アルフォンス・ドーデの「最後の授業」が、実はもともとドイツ語文化圏の話であり、フランス・ナショナリズムの作品であることを広く知らしめた。 『チョムスキー』では、生成文法の創始者チョムスキーを英語中心主義として批判したが、これは田中の生成文法に対する無知による誤解として、原口庄輔らの言語学者からは批判されている[1]
指導学生に糟谷啓介(一橋大学教授)、イ・ヨンスク(一橋大学教授)、フフバートル(昭和女子大学教授、内モンゴル大学客員教授)[2]、アーデル・アミン・サーレ(カイロ大学教授)[3]、土屋礼子(早稲田大学教授)[4]、栗林均(東北大学教授)、櫻井直文(明治大学教授)[5]、熊谷明泰(関西大学教授)[6]等がいる。
『ことばと権力』などの著作においては、「言葉はオトが基本である」「文字はできるだけ規則が少ないほうがよい」という理念から、日本における漢字を「日本の大和言葉を窒息させて消滅させてしまった」「言葉の力を弱める麻薬」などと厳しく批判している。そして、『漢字が日本語を滅ばす』において国語審議会や漢字多用にこだわる文学者たちを批判し、「漢字の多用は『書き手の知識のひけらかし』及び『言葉の力の貧困さ』の証明」と言いきって、漢字のみで言語表記をする中国語においてすら表音文字化の取り組みが長年なされ、妥協として大胆に簡略化した簡体字が導入されたことや、漢字を用いない中国語の例としてのドンガン語の例から言語表現に漢字が必須ではないことを紹介し、漢字を廃止したベトナム・南北朝鮮を見習って、日本は漢字から脱却したうえで長い時間をかけてでも仮名もしくはローマ字による日本語独自の表現を追求するべきだ、と主張している。 漢字を乱用する丸谷才一を著作で「右翼デマゴギー」と罵ったこともある[要出典]。