献公(けんこう、? - 紀元前651年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前676年 - 紀元前651年)。姓は姫、諱は詭諸。武公の子。西虢・虞・魏等の国を攻め滅ぼし、「十七の国を併呑し、三十八の国を服属させた」とある。
太子として、父の武公の晋再統一戦で活躍した。即位してからは、謀臣で大夫の士蔿の献策のもとで、宗家の威勢を脅かし始めた桓叔・荘伯を祖とする公族[注 1]を滅ぼして宗家の権威を確立し、晋を隆盛させる契機となった。この功により士蔿を大司空に任命した。献公9年、西虢に攻め込まれた。これは、滅亡させた晋の本家の公子たちが西虢へ亡命し、訴願したことによる。献公は西虢を攻めようとしたが士蔿の諫言を容れ止めた。献公16年、軍を増やして二軍とし、献公自身が上軍の将となり、太子申生(共太子)を下軍の将に、献公の御者に趙夙、車右を畢万として、周辺諸国の小国霍・魏・耿を攻め滅ぼし、耿を趙夙に魏を畢万にあたえた。献公17年、申生に命じて東山氏を伐たせた。これで近隣の平定を終えたと見た献公は、献公19年、西虢を誅つために荀息を虞に遣わせて道を借りた(仮道伐虢)。この西虢攻略には3年かかったが、ついに攻め滅ぼした。帰還の途中に虞も滅ぼして併呑し、領土を拡大させた。
しかし、晩年は愛妾の驪姫(異民族の驪戎の娘)の讒言を信じ、太子申生を殺し、公子重耳(後の文公)・公子夷吾(後の恵公)などを遠ざけたために、晋は大きく混乱した。これを『驪姫の乱』と呼び、これ以後、晋は太子以外の公子を国外に出す伝統を守り、このため公族の力が非常に弱くなっていった。
父親:
兄弟:
妃:
子女:
不明 - 紀元前651年
成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
曲沃の武公が翼の晋侯緡を滅ぼし、晋が再統一される
この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。