源 顕定(みなもと の あきさだ)は、平安時代中期の貴族。村上天皇の第四皇子、一品式部卿・為平親王の子。官位は従四位下(上)・民部大輔。
経歴
六位蔵人・侍従・弾正大弼を歴任する。
後一条朝初頭の長和5年(1016年)2月に姪の嫥子女王が斎宮に立てられると、顕定は斎宮別当に任ぜられるが[1]、7月に妄りに故障を申し立てたことを理由に、藤原兼綱・源親方と共に恐懼に処された。寛仁元年(1017年)敦明親王に代わりに、敦良親王(のち後朱雀天皇)が立太子されると、顕定は東宮昇殿を聴されている。
寛仁2年(1018年)敦康親王が没した際に、その葬送の次第を母に伝達している。寛仁3年(1019年)頭弁・藤原定頼に嘲笑されるが、この際に定頼が摂政・藤原頼通の発言を引き合いに出したことから、逆に定頼が頼通の勘気を受けて謹慎させられている[2]。その後、民部大輔に任ぜられ、位階は従四位下[3](または上[4])に至った。
治安3年(1023年)8月4日卒去。享年は不明だが、兄の生年から45歳以下であったとみられる。
逸話
あるとき、陣座で五位蔵人・藤原範国が職事(蔵人)として申文を受け取るため、上卿・藤原実資がその申文を範国に読み上げていたところ、東の端にいた顕定は性器を露出した。範国はそれを見て噴き出したが、実資は奥の方にてそれが見えなかったためこれに激怒したため、その失態が奏上されてしまった。範国は恐れ慄いて事情を言えなくなってしまったが、顕定はそれを面白おかしく思っていたという(『江談抄』『今昔物語集』)。
官歴
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
- ^ 『左経記』長和5年2月22日条
- ^ 『江談抄本』59
- ^ 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『尊卑分脈』村上源氏
- ^ a b 『左経記』
- ^ 『御堂関白記』
- ^ 『小右記』
- ^ 『小右記』治安3年8月6日条