具平親王(ともひら しんのう)は、平安時代中期の皇族。村上天皇の第七皇子。官位は二品・中務卿。後中書王(のちの ちゅうしょ おう)、千種殿(ちぐさ どの)、六条宮(ろくじょうの みや)[注 1]の通称がある。
応和4年(964年)叔父にあたる民部大輔・源保光の坊城宅で生まれる。康保2年(965年)親王宣下。康保5年(967年)5月に父・村上天皇が崩御すると、7月には母・荘子女王が出家した。
円融朝の貞元2年(977年)元服して三品に叙せられる。一条朝にて兵部卿・中務卿を務め、寛弘4年(1007年)二品に至る。寛弘5年(1008年)7月に母の荘子女王が没すると、具平親王も後を追うように翌寛弘6年(1009年)7月28日に薨じた。享年46。最終官位は二品行中務卿。
幼少の頃から知的好奇心に富み、心構えがしっかりとした人物だった[2]。卓越した文人として知られ、一条朝における文壇の中心人物であり、文人だった叔父の兼明親王(醍醐天皇皇子)が「前中書王」と呼ばれたのに対して、具平親王は後中書王と呼ばれた。詩歌管弦を始め書道・陰陽道・医術にも通じていた[3]。
橘正通・慶滋保胤に師事し、大江匡衡や藤原為頼・為時兄弟(紫式部の伯父と父)などとも親しく交流した。藤原公任とは柿本人麻呂と紀貫之の歌の優劣を廻って論争し、人麻呂が優ると主張して公任を論破したことが有名な逸話として伝わり(『古事談』)、これが後に公任が『三十六人撰』を選定するきっかけとなったという。
親王作の詩歌は『拾遺和歌集』の3首をはじめ、勅撰和歌集に都合41首が採録されている[4]。他にも『本朝麗藻』『和漢朗詠集』『本朝文粋』などに漢詩作品が撰集されている。
親王の子女のうち三人が藤原道長の子女と結婚しており、嫡男師房の子孫は村上源氏として院政期に勢力を拡大した。長女隆姫女王(関白頼通室)と三女嫥子女王(関白教通室)は子に恵まれなかったが、次女敦康親王妃の一人娘嫄子女王(後朱雀天皇中宮)が頼通・隆姫夫妻の養女となった。なお、『栄花物語』では頼通が三条天皇から内親王(禔子内親王)降嫁の話を持ちかけられた際、隆姫の行く末を案じて頼通に取り憑いた具平親王の怨霊が現れ、強く破談を求めたとの逸話がある[7]。また、頼通の妾で寛子・師実らの生母である藤原祇子(頼成女)も、一説には具平親王の落胤だというが定かではない[8]。