源 惟正(みなもと の これただ)は、平安時代中期の公卿。文徳源氏、右大弁[注釈 1]・源相職の三男。官位は従三位・参議。
経歴
朱雀朝末の天慶9年(946年)左兵衛権少尉に任ぜられると、村上朝前半にかけて約10年に亘って左兵衛尉を務め、この間の天暦4年(950年)春宮・憲平親王が立坊すると東宮蔵人に、天暦9年(955年)には村上天皇の六位蔵人に補せられている。
天暦10年(956年)従五位下・備中介に叙任されると、のち信濃守・播磨介と村上朝後半は地方官を務め、この間の天徳5年(961年)治国の功労により従五位上に叙せられている。
康保4年(967年)東宮蔵人として仕えていた憲平親王が即位(冷泉天皇)すると、新春宮・守平親王の春宮大進に任ぜられて京官に復帰し、安和元年(968年)正五位下に昇進する。今度は安和2年(969年)に守平親王が即位(円融天皇)すると、春宮大進の功労により従四位下、天禄元年(970年)従四位上・左近衛中将兼蔵人頭と、冷泉朝から円融朝にかけて急速に昇進を果たし、天延2年(974年)正四位下・参議に叙任され公卿に列した。貞元2年(977年)従三位。
天元2年(979年)正月に子息・遠古の伊予介任官申請のために参議辞任を上表するが。3月に勅により参議に復した。天元3年(980年)4月29日薨去。享年52。最終官位は参議従三位行修理大夫兼大和権守。
官歴
『公卿補任』による。
系譜
- 父:源相職
- 母:源当平の娘
- 妻:藤原守文の娘
- 妻:藤原国章の娘
- 生母不明の子女
脚注
注釈
- ^ 『公卿補任』は左大弁とする。
- ^ 母を藤原国章の娘とする説がある(関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、2007年、pp. 30-31。)。
出典
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年